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誇るべき日本の経営者

日本の経済誌「日経ビジネス」は、取材の深さや企画力、編集の切り口など、扱う情報や目的はちがうけど、本づくりのお手本にしているメディア。

少し前の号に、ボクが尊敬する経営者のひとり、花王の前会長の後藤卓也さんのインタビューに感銘を受けた。

抜粋しよう。

例えば、ヒット商品が生まれると、その商品の開発担当者が脚光を浴び、雑誌や新聞などで紹介されてちょっとしたヒーローになります。しかし、決して1人の力だけでヒット商品は生まれません。生産や物流、宣伝、営業といった一連のラインの努力が積み重なってこそ、売れる土壌が築かれます。
その裏には、商品の安全性を黙々と続けているスタッフや、3交代で夜中も工場で生産活動に従事している人たちなど、縁の下で支える社員がたくさんいるのです。こうした日のあたらないところにも目配りをすることが、経営者である自分の役割であると思ってきました。そのため、折あるごとに全国や海外の事業所を行脚し、社員に対して「あなた方のやっている仕事には1つとして無駄なものはない」と説き続けてきたのです。

社長7年、会長4年の在任中も、一部上場企業のトップにして電車通勤。運転手付きの社用車も個室も持つことはなかった。

それでいて、社長在任中は増収増益も成し遂げた。

どこかの国の潰れそうな自動車会社のトップが、ワシントンにプライベートジェットで乗りつけたのと、人としての有り様がちがう。経営者としての腹の括り方、心構えがちがう。

(GMとクライスラーが潰れてしまっては、社会へのインパクトは大きいし、当然この日系社会にも痛みを伴うだろうけど、血税を注ぎ込んでまで支援をしてはならないし、その価値はないと思う。だったら救うべき無名の企業は数千倍あるだろう。小さな個人経営の会社は、経営者がピンチの時は、家・土地・財産を処分しても命をつないでいるんだ)

日本の首相とオバマだけをとって比較しても、日本の指導者たちの志は、世界中どこに出しても恥ずかしいけど、日本の誇るべき経営者は世界でも超一流だと思う。

経営者だけじゃなく、組織人、技術者、役人、教育者、ボクらの母国の人たちは世界でもっともっと活躍して、規範になれるポテンシャルを持っている。

一方で、資源もない、人口も減少していく日本人が、同じような努力や工夫で、他の先進国や、台頭する資源を持った大国のなかで生き残っていけるわけがない。よっぽど一人ひとりが頑張らねばならない。と思う。

11 29, 2008

シンドラーズ・リスト

穏やかな土曜日の午後。
書斎でひとり、スピルバーグの「シンドラーズ・リスト」を観た。

ボクはいつも感情移入し過ぎてしまう。

それを引いても。
ほんの少し、生まれた時代や国がちがっていたら、映像の中で迫害され、虫けら同然に殺されていったユダヤ人の中に自分はいたかもしれない。もっとおぞましいのは目を覆うような残忍な殺戮に無神経なドイツ人の中にいたかも知れない。と、思う。

考えてみたら、同じ時代にボクらの同胞の日系人だって、家土地財産すべてを奪われて強制収容所に追われて辛酸を舐めたのだ。

今、ボクらは安全の中で暮らし、財産が守られ、家族や仲間と笑顔で生活できること。

水道を捻ったら水もお湯も出て、明日の米(パン)に困らない生活。

ボクらは当たり前ではないことに慣れ過ぎてしまっている。

実は実は、それは錯覚であって、今同じ地球で銃に怯える生活、餓死で命を落としていく子どもが存在するのだ。

空襲や爆撃や悲鳴が聞こえない生活を当たり前に感じているけど。

「自分だけ」「自分の身内だけ」「自分のコミュニティだけ」「同胞だけ」

映画を見て、改めてそれじゃイカンと思った。

何をしたら良いか、何ができるかもわからないけど、どうもそれではイカンと思った。

すべて人の心の中に、
莫大な財産をすべて投じて1200人を越えるユダヤ人を救ったシンドラーが必ず存在する。

すべてに人の心の中に、
鬼も、詐欺も、怠け者も、自分を犠牲にしても人を救える良心も、すべて内在するのが人間だと思う。惨くて儚い。優しくて強い。

ラストシーンで、片腕のユダヤ人イザック・シュターンが、オスカー・シンドラーに、ユダヤの格言「ひとつの命を救う者が世界を救える」と語りかけたのは、きっとスクリーンのこちら側にいる、世界中の人たち(ボクたち)だったのだとしばらく経ってわかった。

11 23, 2008

仲間へ

11月10日に全米家電小売り2位のサーキット・シティ・ストアーズがチャプター11(連邦破産法)に基づく会社更生手続きの適用を申請した。

身近なところでも、出張から帰ってきてこの3日の間だけで、仲間のメディアが休刊を決め、また親しくなったばかりの不動産業界の起業家の方がいったん帰国を決めた。直接の知り合いではないけど、現在の社屋を決める前にオファーを入れたビルの持ち主が破産したことを一昨日担当者の知らせで受けた。

薄っぺらな世間の評価に、失敗したら負け組、儲かったら勝ち組という見方があるけど、それはちがう。

失敗も成功もその瞬間を輪切りにした状態であって、その後のベクトルとは関係ない。

世間が失敗の烙印を押しても、そこで得た教訓を余すところなく活かし、バネにして、這い上がろうとするなら、その瞬間は成功へのスタートラインだし、成功とまわりが賞賛しても、危機感を持たず、我が世の春と慢心し、己のチカラを過信したならば、すでに足元は崩れはじめているだろう。

10年以上も前、ボクはある別の会社を畳んだことがある。(いや、失敗を数えたらきりがないんだけど)

気が遠くなる借金の返済、モールの家主さんへの残額の支払いの交渉(というより減額のお願い)、従業員の再就職先のお願い(パートナーが引き受けてくれた)など、閉めるにも莫大なエネルギーとお金が掛かった。そもそも、そこに至るまで、ボディーブローのように毎月ジリジリと負債が膨れ上がっていく。
結局、持ち家を処分して清算した。

あの時、奥歯が食い込むくらい悔しかったし、情けなかったし、まわりに心底申し訳なかったけど、そこで得た教訓は確実に血肉になっているし、バネになっている。

実はその後も懲りることなく、失敗を繰り返すのだけど、順風満帆の時より、失敗や撤退から学ぶことの方がはるかに多い。

ボクの事例など何の参考にもならないけど、世の中の歴史に名を刻むような成功者は例外なく大きな失敗をしている。歴史に名を残さずとも、まわりの偉大な経営者や成功者も必ず一度や二度、いや何回もペチャンコにされている。そしてそこから這い上がったのだ。

「もう歳だから」はちがうと思う。
5年後より、10年後より、今の方が5年も10年も時間を貰えたのだから。

人が何と言おうが、後ろ指を指そうがバカにされようがそんなの関係ない。

今こうして生きていることがそもそも100点満点の感謝で、そのうえにさらに、世の中に自分のことを心配したり、わかってくれる人が、一人以上いたなら言うことないではないか。あとは感謝とヨロコビの足し算だ。生きていたらどこからだってやり直せる。復活できる。

この思いを、いったん退席する仲間に捧げたい。

しっかり充電したらまた頑張ろう、いっしょに!!!ひとりじゃないから。

11 14, 2008

世界日本語メディアアライアンス誕生!

今回日本で第一回目の総会を実現した世界日本語メディアアライアンスのことを書こう。

この会は、

1)世界中で「個人が学び、働き、活躍できる」世の中を創る
2)スタッフやその家族・友人が誇りを持ち、物心両面で幸せになれる業界を創る

この2つの理念に共感する日本語メディアの経営者の会で、「同志の会」であり「研鑽の場」を目指している。

ひとつひとつは地域の情報誌であっても、手をつなぐことで、
カバーする都市や国は、NY、LA、サンディエゴ、ハワイ、北京、上海、香港、大連、(以下、国)タイ、ベトナム、インドネシア、マレーシア、シンガポール

8カ国13都市にのぼり、
各社の読者数を合わせると、海外在留邦人の70〜80%をカバーするメディア連合体になる。その数(発行部数、推定読者数)は日本の主要な週刊誌やメディアに決して引けを取らない。

ボクらが手を取り合えば、各社が根を張る地域の日系社会の活性化・拡大はもとより、もっともっと個人が海外で活躍するための情報インフラを築くことができるだろう。もうこれは願いというよりボクらの使命だ。

そんなことで、遡ること11月1日、銀座に本社を置くチャイナ・コンシェルジェの会議室を借りて、どっぷり一日議論をした。

例えばテーマは、各社が人材採用や教育をどのようにしているか、また営業戦略、研修制作のノウハウなどの情報交換。

記事コンテンツの共同制作や共同仕入れについてのアイデア出し。

あと、活発に利用はしてもらっているけど、なかなか収益につなげにくいウェブサイトをどうやって繁盛サイトに進化させるかについて、すでに成功モデルを確立しているメディア経営者がそのタネを明かしてくれたりする。

どれをとっても情報誌経営に役立つ実践的な深い議論を交わすことができた。

そういった目に見える収穫だけでなく、大いに感激したのが、各社ともに惜しみなくノウハウを情報提供してくれたこと。

言ってみたら、タレが勝負の焼鳥屋が、秘伝のタレのレシピを配るようなものだ。自分たちが5年も10年も(あるいはもっと)かけて作り上げたエッセンスをポンと同業者あげるなんて並大抵のことではない。

だけどそれができる人にはそれ以上のものが還ってくるのが世の常だ。

あらためて立派な経営者仲間に集まってもらえたことを感謝した。

第二部の懇親会は会場を移して、おでんや季節の肴を囲んで盛り上がった。前日39℃を越える熱を出してひっくり返っていたボクはウーロン茶で完敗、いや乾杯。

次回の開催地はわれらがロサンゼルス。2009年5月5日に実施予定。

11 13, 2008

遠くへ、遠くへ

3週間の日本とアジア出張から日曜日に帰国。
出張前半に大学で講演をしてまわったことや、大阪版満員電車に揺られたり、ちゃんこを食べて感激したのが遠い昔のようだ。

帰路は、土曜日の深夜にマレーシア(クアラルンプール)からシンガポールに入って、空港内のホテル(なんと搭乗ゲートと隣接!)で仮眠を取り、早朝出発から東京経由でロサンゼルスに帰ってきた。

まず、シンガポールからマレーシアの飛行機の予約が、リコンファームがないという理由で落っこちていた。(こんなことはしょっちゅう。きっと何とかなるし、なってきた)

それから、シンガポールでの乗り継ぎ(空港内ホテル宿泊)は本来通関の外に出てはならないのに、知らないでうっかり外に出てしまったものだから、深夜でボーディングパスを発行してもらえず、危うく野宿の人になるところだった。(24時間の空港のヘルプデスクのお嬢さんたちが必死に通関に交渉して入ることができた)

最後までハラハラドキドキ楽しい出張だった。

思えば、マレーシアの空港に着いてから、ロサンゼルスの通関を抜けるまで26時間のロングトリップだったけど、窓の外を眺めたり、メールの返信をしたり、本を読んだり、眠くなってはコックリコックリしているうちにあっという間に帰ってきた。長旅がちっとも苦にならない。

ボクは小学生の頃、週末はポケットに数百円の全財産を入れて、ママチャリ(フツウの自転車)で、それも時には近所の子どもとタンデムで、大人がビックリするくらい遠くまで走る少年だった。

故郷の讃岐山脈を越えて徳島県の吉野川まで訪ねた時は、目算を誤って、登っても登っても風景が変わらない帰り道、いつの間にか闇が降りて心細くって泣きそうになった。

やがて10代はヒッチハイクの味を覚えて、遠くに行く時はトラックの運ちゃんの好意と退屈しのぎに甘えて日本のあちこちを旅するようになった。知らない世界、ちがう境遇の先輩たちとの会話は教室の1000倍楽しかった。

19の時、運輸省航海訓練所の帆船日本丸で、冬の北太平洋を風のチカラだけで45日かけてホノルルまで辿り着いた。

ディスコもコンビニも信号もテレビもない世界。そして女性がいない野郎だけの世界。

風呂は海水。洗濯はタライで手洗い。毎朝、ヤシのブラシで甲板磨き。

毎日風景は水平線。朝晩海面から55メートルの高さのマストに、裸足で登って水平線を眺めると、本当に地球が丸いことを実感した。

天の川は、本当に夜空に大きな川が横たわっていることも、星座が教科書に出ている点と線ではなく、星座そのものであることも、月のない夜空が教えてくれた。

六分儀で星や太陽の高度を測って、手計算で船の位置を確認する毎日。
その延長線上に、ホノルルも、アメリカ大陸も、南半球のタヒチもあった。人間ってスゴイ。

海の向こうに陸があって、そこには灯りがあって、まだ見ぬ人の営みがある。

遠くへ、遠くへ。

あれから20数年。ボクの性質はあんまり変わっていないようだ。

11 12, 2008

日本出張後半戦

ブログのアップは一週間ぶり。
シンガポールからです。

今日は11月6日。地元の日系メディア「COMM」社のデスクを借りてシゴトをさせてもらっている。

ブログをアップする間もないこの一週間を駆け足で振り返ってみたい。

一週間前の今頃は朝イチの飛行機で新潟から、研修を作らせてもらっている岐阜の美容専門学校を訪ねた。

理事長が熱い方で、教職員の方もみな明るく礼儀正しい。学生もアルバイトで学費を稼ぎながら通う若者が多いそうだ。

JR岐阜駅直結の玄関には「歓迎」の筆文字。
玄関ホールには、以前に理事長とがっちり握手したボクの写真を飾ってくれている。
ちょっと気恥ずかしい。

学生たちに講演会をさせてもらう。

美容師は、人をシアワセな気持ちにできる素晴らしい仕事で、言葉や国境を越えて活躍できる。
世界中で活躍できるよう、今日目の前の授業を真剣に取り組んでください。そして学校で、社会で、技術を徹底的に磨いてください。
みんなの先輩たちが海外で活躍して道をつけてくれている。
みんなの机と世界は繋がっているんだよ!

そんな話を事例をあげながらさせてもらった。

理事長と駅で蕎麦をすすって、慌ただしく名古屋へ。

名古屋ではC大学で来年以降の海外研修をカリキュラムにどう組み込むかのミーティング。
この大学もトップをはじめ、教授も、経営サイドも熱い方が多い。議論が常に建設的で話が早い。

合間に献血車で献血をした。ちょっとふわふわする。

夜はいっしょにプログラムを育ててきたS教授夫妻と未来の学校教育を語りながら会食。

S教授は奥さんもふたりの子どものみんな学校の先生。いつも教育を通して世の中を良くしたいと願っている。

翌朝7時の新幹線で東京に移動。
10時からのミーティングの最中は宙を浮いているみたい。すこしカラダが軋んできた。

午後は役員会に参加して、夕方も大切な会食。
が、2時間経った頃、ヤバい、倒れそう。カラダがうまく支えられない。

クライアントと木田に詫びて失礼する。
カラダがブルブル震える。アタマで目玉焼きが焼けそうなくらい熱い。

ホテルで体温計を借りて熱を測ったら39.6℃。

それを見てもう一回ふらふらする。大人になって、いや、記憶にある中でこんなに熱出したのは初めて。家内からボクは「痛がり、苦しがり」といつも茶化されるけど、さすがに日本に来て張り切り過ぎて電池が切れてしまったようだ。

頭痛と悪寒でよっぽど救急車を呼ぼうかと思ったけど、何とか朝を迎えることができた。

ホテルで調べてもらって高輪の病院に行ったら、保険証もないし初診なのに親切に看てくれた。ありがたい。

肺炎の恐れもあるとレントゲンまで撮ってくれて7千円くらいだった。
日本って、医療費が高いと文句を言うヒトが多いけど、アメリカに比べたらうんと恵まれている。

その日はミーティングもアポイントもキャンセルさせてもらってホテルで薬を飲んでひたすら眠り続けた。我ながらけっこうタフなスケジュールに持ちこたえてくれたカラダに感謝。

そうそう。翌日は今回の出張のハイライトのひとつ。世界メディアアライアンス。こちらも大成功。(すごくはしょってるけど)この話は機会を改めたい。

そして週明けから熱風大雨の大躍進国シンガポールへ。

(つづく)

11 06, 2008

フリーランスという生き方

10月29日の早朝。

ボクは今、富士山を左の窓から眺めながら、新潟から名古屋へ向かう飛行機で空を飛んでいる。

紅葉に染まりはじめた山並み。人里離れた山間の集落。

あそこではどんな人たちがどんな暮らしを営んでいるのだろう。

出張も中盤。
昨日は朝から5つの学校の責任者と終日熱の入ったミーティング。

「この学校に入学したからこそ体験できるという研修。
自分たちの机と世界はつながっていること、将来活躍できるフィールドが世界にあることを体感できる研修を創りましょう」とボクはいつも訴える。学校の切り札のひとつになり、学生の人生の転機になるような教育コンテンツを提供し続けたい。

夕方からは新潟に拠点を置く、日本でも有数の学園グループの現場トップのKさんと深夜まで天下国家を語って痛飲した。

ボクは以前からKさんに提案していることがある。

ボクは、世の中に、組織に属する生き方だけでなく、フリーランス(フリーターではない)として生きる選択肢と、そのための教育が必要だと思っている。

それを、1万人を越えるKさんの学園グループに導入して、成功事例(種火)を作りたいし、それが日本中に広がればと願っている。

「フリーランス」

組織に属さず、人を雇わず、自分の身を自分で立てていく生き方。営業もサービスも代金の回収も経理も自己完結。そんな生き方を、いつの日か日本中の専門学校生に学んでもらいたいと願っている。

実学教育の専門学校は、いわゆる“手に職”系で、技術や資格を身につけて社会に出る。

その多くは、中小企業や個人商店に就職して、傾向として組織や社会をどっちかというと下から支える側に回ることが多い。

自分で独立起業したり、心ある経営者の目に留まって出世する人は良いが、そんな人ばかりではなかろう。

多くは、営業も達者ではないし、人づきあいや要領が良い人ばかりではなかろう。だけど、学校で身に付けた知識や技術、資格を活かしてコツコツとマジメに生きていきたいと願っている(と信じている)。

そんな彼らが、例えば自宅をホームオフィスにしたり、あるいは仲間と事務所をシェアしたり間借りをするなど、固定費を最小限に抑えて、自分でビラを配ったり、人の紹介から地道に客を増やし、不得手な人間関係に謀殺されずに、自分がもともと好きで選んだ”手に職“で、目の前の客を喜ばせることだけに集中して仕事と向き合えば、収入は少なくとも仕事で得られる満足や人生の充実感は高かろう。

リストラの心配もないし、上司や部下との人間関係に悩まされることもない。
出産や育児で泣く泣く仕事を放棄することも少ないだろう。

 

フリーターとか失業とはごっちゃにしてほしくない。

会社経営や会社勤務と並列の自己完結型個人事業主なのだ。

今の専門学校教育(大学もそうだけど)では、技術や資格は教えても、ストリートに放り出されて素手で生きていく術は教えていない。専門学校は、大学を目指したり、張り合っている場合ではないし、その必要もない。本来、どっちも世の中にとても必要な存在なんだから。

話を戻そう。

例えは乱暴だけど、ボクは生きるうえで必要なのは、素手で獲物を捕る術であり、外敵から身を守る術だと思う。その基本を学校で教えてほしい。

酒が進んだ頃、Kさんがつぶやいた。

「コミヤマさんの提案してくれた企画書(ストリートで生きられる人づくり学校の提案)は大事にとってあります。世の中を考えたら、絶対必要なのもわかっています。それをオーナーに伝えるために今一生懸命説得いるのです。時間は掛かるけど待っていてください」

ボク自身は豆粒みたいな存在だけど、歴史に残るどんな大きな出来事だって、一番最初は個人の脳味噌の中からスタートする。未来と向き合う人たちが共感する夢ならば、小さな思いは大きなうねりになって世の中を動かすにちがいない。

Kさんのつぶやきを聴きながら「あきらめないぞ、あきらめないぞ」と心に誓った。

10 29, 2008

パッチって何?

10月27日の月曜日、午後7時過ぎ。

寒い。すごく。

そう、ボクは新潟空港のカフェで、中部空港から合流するLCEのパートナーの高畠を待ちながら、メールの返信やこのブログを書いている。

福岡からの飛行機を降りて、その肌寒さにたまりかねて、まずカーディガンとジャケットの下に、ハイネックのシャツを着込んだ。デニムの下にパッチが欲しい!

明日は朝から5つの学校との大切なアポイントと、夜は学校グループの親分で、旧知の仲であるKさんとの会食が控えている。

明後日は早朝に岐阜に飛んで、これまた大切な会食が待っている。

午後は週日愛知の大学幹部とのミーティングと会食。

明々後日から東京に北上して、大切な決めごとをせねばならぬ。

週末には世界メディアアライアンスの第1回の総会だし、来週はシンガポールとマレーシアが控えている。

すべてのアポイントが未来につながる真剣勝負だから、最高最善のパフォーマンスをあげることができるよう、道中コンディションを決して崩してはならない。

* 追記
高畠合流後、新潟駅で無印良品の店を見つけて飛び込んだ。
「パッチください」
「パッチって何ですか?」
“パッチ”が通じない。説明するもそういうものは「ありません」。
で、購入したのが女性用のスパッツ。

スパッツのおかげで寒い新潟を乗り越えることができた。

スパッツ、やめられない。

10 29, 2008

相槌を打ちつつ

0月26日日曜日の朝。

ボクは、友人で大先輩のSさんに会うために、博多に向かうひかりレールスター号に乗っている。Sさんは仕事においても、LCEを応援し、また期待にしてくれている大切なクライアントでもある。Sさんが責任者を務める専門学校で、スタッフや学生選抜のみなさんに「元気が出て、夢を思い描ける話」をさせていただきそうなので、熱い想いと応援メッセージを送りたい。

旅で移動が多いボクは、車窓を眺めながら文章を書いたり、構想を膨らませるのが好きだ。また読書も、ベッドや書斎より移動している方が楽しい。

時々、あぜ道を散歩する親子に目をやったり、富士山に目を奪われたり。

昨日から今朝にかけて、城山三郎さんの「そうか、もう君はいないのか」(新潮社)を読み終えた。

筆者が逝く6年前に先立った夫人との出会いから見送りまでの歳月を綴った回想録。夫人への溢れるような愛情を、あえて淡々とおさえた筆致で綴っていく。

読み進めるうちに、やがて自分たち夫婦が重なり、ラストシーンを読み終えたボクは、まだ夜が明けぬ始発のマリンライナー(高松−岡山)でひとり声を押し殺して泣いた。いや、お恥ずかしい。最近涙もろいみたい。

鼻水が止んだ頃、カミサンと出逢った頃とか、勝手気ままにやらせてもらったこの20年を思った。

「良いダンナさんね」と稀にいわれることもあるようだけど、決してそんなことはなくって、ボクはこれまでの結婚生活の、いや人生のほとんどの時間は、唯我独尊で、我田引水で、見通しが甘くて、依頼心が強くて、どうしようもない人間だったと思う。

今もまともではないけど、それまでの生き方や自分を恥じて、まっとうに生きようと思えるようになったのは40になってからだ。

それなのにカミサンはボクに愛想を尽かすことなく、ボクが本質で考えているか熟考を促したり、誤った(危うい)方に流れぬようカラダを張って制止するヒトだった。

いや、「だった」じゃなくって「である」。

今生きていてくれて良かった。うるさいけど。

わかっているのだ。

ボクはウソもついたけど、カミサンはウソをつかない。何につけ筋も通っているし、ぶれない。

そして、いつも笑い、いつも誰かを気にかけている。

身内を褒めてはいけないけど許してほしい。だってこんな本を読んでしまったのだもの。反省も感謝もするさ。

それにしても本の影響と、出張で離れているからだろう。
だいぶカミサンを美化して考えているようだ。

アナウンスがこだます岡山駅のホームかカミサンに電話した。

「別に用はないんだけどさ」

家内は勝手に受話器の向こうから他愛もない日常を話している。
ボクはしゃべるとまた泣き出してしまいそうなので適当に相槌だけ打っていた。

10 27, 2008

そんな時はシュウマイを

10月24日金曜日。
新大阪から名古屋に向かう新幹線の右側の車窓に、昨日講演に招いてもらった大阪経済大学のキャンパスが流れていく。

講演に来てくれた学生の数は、今回の講演行脚の中で1番少なかったけど、地アタマの良さそうな若者たちが、講演が終わってからも真剣なまなざしで食らいついてきて気分が良かった。

講演後のアンケートの結果も、全員「たいへん良かった」と「良かった」に○をしてくれて、多少でも何かを感じて帰ってくれたようでひと安心。

今朝メールを開くと、さっそく今回講演をした大学の学生から人生相談のメールが届いていた。彼らの大切な人生に関わることだから、いったん内容を頭に入れて、時々車窓の景色と重ねながら、伝えるべきアドバイスを考えている。

今週は関西を中心に飛び回っていたので、すっかり土地勘がついた(つもりでいた)。
何なら関西のことは何でも訊いてほしいという意気込みでいた。

そして今朝の話。

昨日の別れ際に役員の木田は、駅の路線図を傘の先で指して「午前10時のアポイントの関西大学は、新大阪から京都線に乗って吹田駅で降りて、そこから電車に乗り換えて関大前駅で降りるように」と詳しく説明をしてくれていた。

間違えぬよう繰り返し暗唱したボクは、少し早めに新大阪駅に行って、まさに出発する京都線に颯爽と乗り込んだ。まるで初めてマンハッタンで地下鉄に乗った時のような自信と達成感を胸に。

ドアの上にある停車駅の表に、吹田駅が2つ目にあることを確認した時、ボクはうっすらと笑っていたと思う。

そこに流れたアナウンス。

「次の停車駅は高槻ぃ〜高槻ぃ〜」

って、どういうこと!!

恐る恐るもう一度、停車駅の表を眺めたとき、快速に乗ったことが理解できた。

そうきたか!

結局、京都に行くくらいの時間をかけて高槻に辿り着いた。大切なアポイントに10分遅刻の大反省。

それでも以前犯したチョンボに比べたら軽いさと自分を慰めた。

それは、大阪で人と会うために、名古屋で新幹線に間一髪飛び乗った時のこと。

荒い息をおさえながら聴いたアナウンスは「次の停車駅は新横浜ぁ〜新横浜ぁ〜」だった。常識破りの4時間遅刻に、ボクは言い訳っぽく新横浜で買ったシュウマイを手土産にした。

 

10 26, 2008