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込山洋一

ジョンレノンの絵

あと1時間余りで成田に着く頃、

「コミヤマさんですよね、ライトハウスの」

フライトアテンダントの男性に声をかけられた。

「20年近く前にお会いしたのを覚えていますか」

えっ!?覚えているようないないような寝起きの空気アタマで記憶を辿る。

「創刊の頃に広告でお世話になったんですよ。リトル東京で画廊をやっていたAです」

エアラインの制服を着ているので一瞬記憶がつながらなかったけど、89年の創刊当時、まだほとんど広告がなかった頃のライトハウス(正確には「OSAGAWASE」)に広告を出してくれた方だ。広告効果というよりも、根負けして出したというのが本音だろう。

創刊当時は飛び込んで飛び込んで飛び込みまくって広告営業をしていたから、ペラペラのタブロイド紙に広告効果を期待するというより、がむしゃらな青年に根負けしておつき合いで出してくれたお客さんばかりだったと思う。

あの頃の人様の「情け」で生きながらえた時代があるからこそ今のライトハウスを発行することができる。Aさんもまたそのひとりだ。

Aさんとはその頃の思い出に話が弾んだ。

当時からフライトアテンダントと兼業で、その合間に絵画の輸出入を営んでおられるのだそうだ。

「恰幅が良くなったけど当時とかわりませんね。ガーデナのアパートでやっている頃の事務所にも行ったことがあるんですよ。みなさん、一生懸命に切り貼りしていました。まじめにやっているからきっとうまく行くと思っていました。トーランス通りに大きな看板を出しているのも知っています。これからも頑張ってくださいね」

ここまで書いて思い出した。

社長室に飾ってあるジョンレノンが描いたシルクスクリーンは18年前にAさんの画廊から買ったモノだ。当時、買うお金もなかったけど、絵が好きで営業に行っては眺めさせてもらっていたボクにとても安く譲ってくれたのだ。それも分割払いで。

ジョンレノン自らピアノを弾くその絵を近頃では意識もしなかったけど大切な思い出が込められていたんだ。

こういう方たちのおかげで今がある。
もっともっと人との縁を大切に生きていこうと思った。

05 29, 2007

高専時代(宴会編)

メモリアルデイの昼前、エアラインのラウンジで書いている。

毎度のことなのだけど、出張の日、いや数日前から、子どもたちと離れることを思うとしんみりした気持ちになってしまう。

それはどうやらボクだけではないようで、突然14歳にもなる娘が「パパ、相撲とろうよ」とせがんだり(それに応えて昨日は真剣勝負で6本取った)、12歳の息子が夜中にベッドにもぐり込んできたりして甘える。こんな歳にもなってという気持ちと、いつまでこんな濃密な時間が過ごせるだろうという複雑な気分がある。

昨晩は親父が釣ったオコゼを肴に弟家族とテーブルを囲んだ。
魚がバンバン釣れるこの季節は親父が主役だ。

親父が金曜日に釣り上げた6匹のオコゼは2枚の大皿に大輪の花のように盛りつけられ、アラは煮付けにした。

オコゼは刺身で食べると飛び切り旨いのだけど、ヒレに毒があるうえ、小骨が多いから手間がものすごくかかる。それこそこれだけの量になると半日仕事。家族はそれを知っているからいつもの3倍親父を大切にする。多少親父が飲み過ぎていても片目を瞑る。

ボクの方はお得意の鍋に、この夜は鱈(たら)と牡蛎(かき)、そしてキノコや野菜をたっぷりと入れた。

鍋と言えば、高専時代に寮の仲間とよく鍋を囲んだ。

と、言ってもいつも金のない連中だから、1人当り600円とか、多くて1000円で酔えるだけの酒と具材を調達しなくてはならないから大変だった。鍋隊長のボクは、土曜日の授業中は帳面に
「焼酎1000円、鶏肉300円、白菜120円、ネギ50円、ポン酢150円、榎茸80円、豆腐50円、白滝50円」などと鉛筆で書いたり消したりしながら熱心にその日の宴の準備をした。国家試験に受かるはずがない。

バイト代が入って金があるときは少しだけビールを買って、「オマエ、さっきから見てるけどペース早いんとちゃうか」などと牽制し合いながらチビチビ味わって飲んだ。あの時代があるから、あまり勘定を気にせずに飲めるようになった今もビールは特別な存在だ。日本の夕暮れ時の街で「飲み放題」などという張り紙があったらついソワソワしてしまう。

本格的に金がないときは「1人300円出し」で酒だけを買って、ジャンケンで負けた人間が近所の畑で大根を抜いて鍋に放り込み、それを食堂の醤油で味付けをしただけのシンプルな鍋に耐えた。ダシも取っていないから「不味(マズ)いな不味いな」とボヤキながらも笑って飲んだ。

鍋ではないけど、微妙なのが1人400円予算の時で、そういう宴は酒以外にキャベツとポテトチップス、マヨネーズを買って来る。ポテトチップスの袋を背中から広げて皿にして、そのふちにマヨネーズをたらして、チップスとキャベツをつけながら食べる。キャベツは手でちぎって食べるのだけど段々と皿の真ん中で小さくなっていく。そんな具合だから、キャベツが小さくなってきた頃に、仕送りのサバ缶などスポンサーする者がいたら崇(あが)め奉(たてまつ)られた。

あの頃はいつも金がなかったけれどよく飲みよく笑っていた。良き人生を送っていたのだと思う。そして今も、たまにでも学生時代の仲間と会っては、笑って酒を飲めることに心から感謝せねばならない。

目の前では親父がオコゼの毒で手が腫れた話をチカラ強く語っている。

ボクはスーパードライをグイッと飲み干し、箸でオコゼを4、5切れ豪快にすくって口に放り込んだ。

05 29, 2007

小さなメディアにできること

明日から日本出張。

木曜日の会議に出席するためなのだけど、土曜日の日本語補習校の運動会は娘にとって最後の運動会。ちょっと後ろ髪をひかれている。くくくっ。

もう先週の話だけど、ニューヨークでナンバーワンの日本語情報誌「NYジャピオン」の社長新谷さんの紹介で、これまたハワイのナンバーワン「アロハストリート」の社長上野さんと始めてお会いした。

新谷さんはハワイでも情報誌を発行しているから、ある意味で上野さんとは競合になるのだけど、こうやって気持ち良く紹介してくれる新谷さんの懐の広さがスバラシイ。

上野さんはロサンゼルスで開催されるコンベンションへの参加に合わせてライトハウスを立ち寄ってくれた。

日本の広告業界に長く携わっていた上野さんは、実に戦略的に自社媒体を日本の在住者にむけてPRしている。

またウェブと誌面(紙)の特性を良く分析していて、広告商品としても巧みに使い分けていてとても勉強になる。

媒体資料に至っては圧巻。

ライトハウスの媒体資料は良く言えば質実剛健。言い換えたら味も素っ気もない。それがアロハストリートのそれは見やすく、わかりやすく、とても洗練されている。
もう周回遅れ。いや10年遅れか。その週の幹部会議で、媒体資料の近未来化プロジェクトを走らせることに。

いや上野さんには訪問いただいたうえ、すっかり勉強をさせてもらった。

半日いっしょに過ごしただけだけど、穏やかでやさしい語り口の奥にある芯の強さを感じた。素のままで肩にチカラが全然入ってない。そのうえアタマがシャープ。カッコいんだなあ。この人とも将来接点がありそう(いや、あってほしい)

これまで地元アメリカを始め、中国、東南アジア、ヨーロッパ、オーストラリア、世界中の日本語メディアのトップと会って来たけど、みなさん個性的で「味」があって魅力的な人が多い。もちろん中には怪しい人や小賢(こざか)しい人もいてそういう人とは静かにスバヤク距離を置くけど。

多くの他地域の経営者とは、カバーするエリアが異なることもあり、気軽にお互いの経営課題や失敗談、今後の事業構想などについて意見を交わす。これが実に学びが多く、参考になる。

またボク自身も「ギブアンドギブ」の気持ちで、自分が持っている知識やノウハウは惜しみなく提供するようにしてきた。おせっかいなくらい。

「ギブアンドギブ」の構えで生きているとどうもそういう仲間が集まるらしい。ボクの好きなメディア仲間はみなそういう人たちだ。だからアタマに汗を流そうとしない「価格破壊系」「誹謗中傷系」「土下座乱発系」のメディアはまわりにいない。みんな直球勝負で、挫けそうになっても自分や夢を諦めない経営者ばかりだ。

ボクの後半の人生のライフワークのひとつは、世界中の「直球系」日本語メディアでアライアンスを組んで、標準化された形で、世界各地での働き方、暮らし方についての情報が得られる環境を創ることだ。

例えばそれは、ライトハウス誌上の連載「アメリカで働く」(様々な職業に就くための要件、適性、収入などの情報を、実際にその仕事に就いた日本人へのインタビューを通して紹介するコラム)の世界各地版が見ることのできるホームページの開設。

もっと具体的に言うと、

アメリカで弁護士になって移民を助けたい、ブラジルで農作物の品種改良の研究をしたい、フランスでファッションデザイナーになりたい、中国で医者になって貧しい人を救いたい、インドでカレーのチェーン店を開きたい。

その「なり方」を標準化された情報で世界中に発信したい。

これまで多くの日本人にとって「ありえなかった発想(選択)」を、情報のチカラで無限の選択肢にまで広げたい。

情報のチカラで人と夢との距離を縮めたい。

人と憧れをショートカットでつないでみたい。

住みたい国での、やりたい仕事の就き方が、どんなに田舎にいても、どんなに貧しくても得られるようになれば、(また直接、人と企業をつなぐ環境があったら)10年後、50年後、100年後の日本人は世界中で当たり前に笑って大活躍しているだろう。

それがボクたちにはできる。

一社一社は小さな日系社会の小さなメディアだけど、実はすごい可能性を秘めている。チカラと想いを重ねたらきっとすごい世の中を創ることができる。

05 27, 2007

誕生祝いに

今日は土曜日。

早朝から、ソフトボールで同じリーグのIACEトラベルとライトハウスの練習試合(ダブルヘッダー)でたっぷりと汗を流した。

腰を痛めていた弟の雄三も久しぶりに復帰。まだ腰を庇いながらで十分に走れないけど、最終打席はレフトの頭上をたっぷり越える特大ホームランで復活の手応えをつかんだ。12打数9安打。

あいかわらずボクは、カラダにキレが良くって仕方がない。

と、調子に乗って(乗せられて)十分なアップもぜずに乗って走りまくっていたら、プチンと左足のふくらはぎを肉離れしてしまった。またそれを庇って走っていたら今度は右足のふくらはぎも傷めてしまった。

良い歳をして張り切り過ぎ。アホである。

それでも打撃の方は、雄三と同じく12打数の9安打。(今日のグランドはフェンスがなかったけど)サク越えのあたりが4、5本あったので上々の出来。後半は足が上がらなくてペンギンのようにポコポコ走って同情を誘った。

試合の結果は、田山父、武田の両投手の好投と、ハンくん、寺尾くんら若手の好守巧打で2試合とも快勝(26−6、17−5)した。

ご機嫌さんで帰って来たけど、家に帰ったところで歩けなくなって、カミサンに両足にアイスノンを括(くく)りつけてもらって、娘には泥んこの靴下を脱がせてもらって、カエルがひっくり返るような情けない格好でしばらくへばっていた。暇にしている息子はその上に腰掛けたり、瞼を指で開いてオモチャにしていく。

さてさて今日は弟の38歳の誕生日。
良い歳をして誕生会でもないが、身内で集まって無事を祝う。

まぁそういうときはまわりが準備をするもんだけど、料理に関しては弟自身が料理人でもあるから自らが腕を振るってみんなをもてなす。

今頃は親父と義妹とキッチンに立って料理を拵(こしら)えているのだろう。

「しばらく忙しすぎたから、これからはまた人づきあいを丁寧にしようと思うんだ」

先日、久しぶりに二人で飲んだ時にそう言っていた。いろいろなこともあったようだ。

弟は2年前にライトハウスを退職して飲食店を立ち上げる時に「もうこの仕事に入ったら必要ないから」とネクタイもスーツもボクにくれた。
そして体型が同じボクは、洒落ものの弟の服を好んで着ていた。

さて、誕生祝いに何を贈ってやろう。

アイスノンで両足を縛ったカラダでしばらく天井を睨んでいたら閃いた。

アイデアが外れていないか、念にために仕込み中の弟に電話する。

「あのさあ。プレゼントなんだけどジャケットとかどうよ。これから社交的な人生を歩むんだったら何かと便利だろ」

「それうれしいよ!でも新しいんじゃなくてええよ。わざわざ買わんといて。兄ちゃんの持ってるので使ってないんがあったら貰ろてええん?ジーンズにも合わせられるようなヤツやったら最高や」

「おう、任しとけ。後でな」

ヘラヘラとマヌケな顔で笑う弟を思い浮かべながら、クローゼットからお気に入りのジャケットをいくつか掴んで、ちょっと躊躇(ためら)いつつもいつか着ようと思っていたポールスミスのシャツを勢いで車に詰め込んだ。

05 19, 2007

信じてくれた人

ライトハウスを創刊する前、ボクはアーバインのアパートの一室で、学習塾(日本の高校、中学受験の学習塾)と家庭教師をやっていた。

もっと正確に言うと、創刊してからも3年間は食えなくて、二足のわらじでやっていた。自分で言うのもナンだけど、成績が伸びると評判でずいぶん繁盛した。

教えるのは好きだし得意なボクだけど、子どもの頃は学ぶのが嫌いで苦手なボクだった。

ボクの子どもの頃の話。

スタートダッシュでずっこけた。

動機は大人の気持ちを惹きたかっただけなんだけど、その奇異な態度で知能の発達が疑われて母親に児童相談所に連れていかれた。

小学校にあがっても、一年生からさっぱり授業が理解できなかった。

漢字を含め、記号、年号、地名、人の名前、とにかく覚えるのが大の苦手で、何回書いても撥水加工のように脳味噌を弾いた。

ボクは鍵っ子だったので、放課後にそういう子どもを預かる教室に入っていた。その教室のキマリで、漢字を100文字書いてからでないと遊んではならなかった。

だからいつも「一」を100回、正確にはノートに横棒をビヨォーンと引いて一撃で8文字くらい量産してノルマをこなした。

見かねた先生が「一」はダメだと言うので、「二」とか少し変化をつけて「三」を書くようにしたら相手にされなくなった。相手にされなくても、転校するまでの一年間ボクは頑張って継続した。

国語でよくある「作者はどんな気持ちであったか答えなさい」これもできなかった。今でも、相手の心を想像したり、察することはできても、その人の気持ちはその人にしかわかるもんかと思っている。また「答えなさい」という言葉にものすごく抵抗があって、考える前に脳味噌が「イヤザンス」と遮断するところがある。

毎学期の父兄面談では、母親からも先生からも木っ端微塵に否定され、コテンパンに叱られるものだから学期の終わりが近づくといつも憂鬱だった。

それでも新学期の初日くらいは頑張るぞと気持ちを新たに臨むのだけど、はっと気づいたら熱心にマンガを描いたり、校庭の蝶を目で追いかけていた。教科書の偉人の顔に長いヒゲを生やしたり、洟を垂らしては黒板の横の時計の針がなかなか動かないのを恨めしそうにながめるボクだった。

自信が削り取られていく毎日だったけど、すごくうれしかったことがある。

小学校2年生の授業参観の時、道徳の授業で給食の人参を食べられない女の子の話がテーマだった。

「どうして食べられないのかな」若い女の先生がボクたちに質問をした。

ボクは手を挙げたのか、当てられたのか覚えていない。

とにかくボクは答えた。

「その女の子は、人参が食べられてしまうと、人参のお父さんとお母さんが悲しむと思ったから食べなかったんだと思います」

かなりアホである。

だけど、先生はボクのことを褒めてくれた。まわりが拍手をしてくれたと思う。人から褒めてもらった記憶があまりなかったもんだから、顔が熱くなるし頭はクラクラ。もううれしくてうれしくて仕方がなかったのを覚えている。

沢庵だけでメシが3杯食えるという人がいるけど、ボクはその体験で3年くらい心が折れなかった。

その翌年、3年生の時に描いた絵画が全国で特選をもらった。シマウマを画用紙いっぱいに描いた絵でタイトルは「たくさんのシマウマ」(そのままやんけ)

通信簿にはあいかわらず反映されていなかったけど小さな自信がついた。

地底を這うような成績を見かねて、親が塾に通わせてくれたり、地元の大学生の家庭教師をつけてくれたりしたがなかなか成果がでなかった。

そんなボクが、6年生の時に新しく赴任した眼鏡のオバちゃん宮武先生の言葉で生まれ変わった。

たぶん、「超」がつく劣等生だったボクの将来を心配して、母親がボクを連れて宮崎先生の自宅に相談に行った時だ。

「大丈夫。コミヤマくんは頭が良いって先生にはわかる。だけど、そんなことより、あなたはとってもやさしい人だからそのことの方がずっと素晴らしいのよ。それにあなたの書く文字はとっても個性的。きっとアートの才能があるのよ。先生はコミヤマくんの字が大好きよ」

褒め言葉連発。気絶寸前。

何だかわからないけど、ボクはうれしくて、信じてくれる気持ちに応えたくて、その時からマジメに勉強に取り組んだ。家庭教師もときどき大人の本をボクに見せてはモチベーションをあげて大いにバックアップしてくれた。今はオデコが広い立派な校長先生になったけど、あの東條先生の熱血指導のおかげも大きい。

おかげで地底人だったボクだけど、中学入試では480人中40番くらいで入学することができた。

その時にボクが学んだのは算数でも国語でもない。

人は純粋にその能力を信じてくれる人がいたらとんでもないチカラを発揮できるということ。そして、人を伸ばすのは「ムチ」ではなく、「飴(愛情、心からの褒め言葉)」だということ。

この経験は後の学習塾経営にも活きた。

すべての生徒ではないけど、ほとんどの生徒が面白いように公開模擬試験の成績を伸ばした。

カラクリがある。

ボクは彼らひとりひとりの長所を粘り強く見つけてやる。あとは本気でその強みを褒めて、信じること。

「オマエはすごいんだ。必ず伸びる。オレは誰よりもオマエを信じている」

それを腹の底から湧き出てくる言葉にして伝えると、放っておいてもチカラをバリバリつけていく。

それは小学校6年生の時に宮武先生がボクにしてくれたことだ。

ボクの塾で大切にしていたのは成績を伸ばすことではなかった。

そんなことは結果としてついてくる話で、長い人生を歩んでいく中で、成績が良かったとか、出身校がどことか、となりのデスクのヤツより業績がどうなんて薄っぺらな話だと思っている。そもそも人と比較する人生なんて意味がない。

彼らには、ボクと向き合った体験を通して、

将来、大きな壁にブチ当たった時に、あの時頑張って乗り越えた自分を信じて、壁が崩れるまで体当たりできる人になってほしい。

折れそうな人に出会ったら、立ち止まってやさしい心で励まし、痛みを分かち合える人になってほしい。

世の中を、属する社会を、組織を、仲間を、家族を、自分を、決して諦めない、信じてやれる人になってほしい。

あの頃、合宿と称しては週末に子どもたちを集めた。
夕食はとりあえず何でも鍋に放り込んだ不思議な料理を分け合って食べた。バカ話で夜更かしをしては寝袋で雑魚寝をした。

彼らのことが本気で好きだったし、真剣に叱ったし手も挙げた。顎が外れるくらいいっしょになって笑った。生徒の帰国のときはひとりでワンワン泣いたこともある。

みんな元気でやってるだろうか。
センセイも恥ずかしくないよう元気で頑張っとるぞ。

05 13, 2007

早朝のグロッサリー

今日は母の日。

子どもたちに引っ張られて、母の日の準備のために早朝のグロッサリーに行った。ミラーをのぞくとアタマが撥(は)ねている。

日曜日の朝だから走っている車は少ないのだけど、前の3台の車(ボクの車を入れると4台続けて)が続けてグロッサリーの駐車場に入っていった。もう一方の入り口からも車が何台か入ってくる。

面白いことに行き来するのはほとんどが男性。

そう、奥さんや母親に花を贈ったり、料理で腕を振るう男性たちで今朝は繁盛しているのだ。

花売り場のコーナーがいつもより拡張して大量の花を陳列している。

そのまわりで腕を組んで花を選ぶ男たち。下はパジャマで寝癖のアタマだったりする。なんだかふわふわした気持ちの良い空間だ。

やわらかい桃色のバラの花束にしよう。子どもたちと花を決めてからカートを押す。

肉のコーナーの前にも考える男性。あんまり料理しそうな感じじゃないからステーキを焼くのかな。ステーキは実はむずかしいのだけどね。

あんたもかい、目が合うとそんな感じでニコッと笑う。

今晩は弟の家族といっしょに母の日を祝うので、ボクはシャンパンを補充して、娘は何やらスィーツを拵(こしら)えるために、店員さんに尋ねて聞いたことのないような材料を揃えている。息子はブルーベリーのパンケーキを作るとはりきっている。

キングクラブの大きな足を2本包んでもらって、野菜のスティックもカートに放り込んだ。午後からは日本のグロッサリーに行こう。

「よし。今日はパパがとっておきの鍋をつくってやろう」

「切って鍋に入れるだけじゃん!」

子どもたちが声を揃えてツッコミを入れた。

05 13, 2007

置き忘れたアタマ

またまたアドレス帳を無くしてしまった。

「またまた」だから初めてのことではない。これまでも何度かやっている。

検討の付くところは一通り探した。

サンディエゴのオフィスには「念のためもう一回探して」と3回電話した。LAのデスク、自宅のデスク、電話のまわり。仕事カバンは10回くらい手を突っ込んで探したし、終(しま)いには車のシートの底まで探した。

けど今回ばかりは見つからない。

これまでも、アドレス帳、スケジュール帳、免許証やクレジットカードの入った財布に始まって、携帯電話、鍵、カメラ、眼鏡(自分でも信じられない)、思いつくだけでも身の回りのモノなら一通りも二通りも無くしている。いや情けない。

その度に「命の重さにくらべたら」とか「健康だったらいいじゃないか」、「ここで悪い運も消費しとかなくちゃ」とか、もっともらしいことを言っては自分で納得をするのだけど、その後にものすごく煩雑な手続きに手をやいた。

もう何を紛失してもカミサンは驚いてくれない。というか黙殺。

こんなボクだから、メンバーが同じ失敗をしても責める気になれない。

会社の機材や備品を無くしたスタッフのことで、しっかり者のマネージャーがカンカンで報告してくれても、ボクは歯切れがものすごく悪い。「人間だもの」では済まされないし「けしからん」とも思ってないしなあ。とにかくそんな時はマネージャーに任せて、だらしない我が身も省(かえり)みつつ神妙な顔を決め込む。

それにしても。

こんなに大事なモノを無くしたり、また肝心なことをスコンと忘れるのは、自分では気づかないうちどこかにアタマを置き忘れたのかも知れない。心配で鏡が見たくなってきた。

05 13, 2007

「おかげ」の中で

金曜日の午後9時半、久しぶりにトーランスの剣道場から。
ずらりと並んだ剣士のお母さんたちに混じってオジサンひとりPCをパチパチ叩いている。

道場の入り口の横に、出席簿や救急箱を置くためのデスクがひとつだけあるのだけど、ボクが来るといつもそこで仕事をするものだから、その「席」はいつも空けておいてくれている。とってもありがたい。

ありがたいと言えば、現在、ロサンゼルス版とサンディエゴ版を合わせると10万人を超える方たちが毎号のライトハウスを読んでくれている。

日本や州外、海外からウェブサイトに来てくれる読者を合わせると、世界中で15〜20万人もの方たちが、ライトハウスを読むことに人生の一部を費やしてくれている。

人様の人生に少しでも関われる仕事。さらにそれによって、その人の生活が便利になったり、落ち込んでいたのが元気になったり、笑ってくれたりしたらこんな幸せなことはない。とても尊い仕事をさせていただいていることを忘れてはならない。

またライトハウス本誌の広告主は、不定期のお客さまも含めると600件くらいいて、毎日その会社のスタッフのみなさんが力を合わせて積み上げた、大切な売上の中から我々に払う広告費も捻出してくれている。

支払いの多くは銀行やクレジットカードから自動的に引き落とされて、実際のキャッシュを目にすることはないけれど、飲食店に例えるならそのお金は、一杯あるいは一皿を売って数ドルの利益の積み重ねであることをボクたちは決して忘れてはならない。

学校や塾であれば、お父さんの給料の中でお母さんが一生懸命やり繰りして捻出したお月謝かもしれない。シングルマザーならもっとご苦労もあるだろう。それが学校の収入となって、そこから給料や家賃や教材費、いろいろな経費を払っていく中で広告費として我々に払ってくれている。

この日系社会で生活する人がいて、その中で事業を営む人がいて、その循環の中で初めてボクたちはこの地に根を下ろして出版活動を継続することができる。

今経営が成り立っているのを、間違ってもメンバーの気持ちの中で、誌面が良いからとか、ワタシの営業が達者だからなどという過信や慢心があっては絶対にならない。会社はそこから崩れていく。

今ある環境は、すべてのまわりの人たちの「おかげ」だ。ボクたちが毎号改善を重ねて、良い本になるよう精魂込めてライトハウスを作るのは使命であり社会に対しての約束だ。

LCE(ライトハウスキャリアエンカレッジ)の教育事業やHR事業も同様だ。

対象者(顧客)はもっとしぼられるけど、その分相手の人生に関わる深さはさらに深く、責任は重い。

日々の業務では、首を傾(かし)げるようなやる気のない学生に出くわしたり、無責任だったり、非常識な相手と向き合うこともゼロではない。

一瞬、同じ人間であるが故に、失望をしたり、腹を立てそうになっても、グッと歯を食いしばってその人自身を信じようと努める人間でありたい。

それは、

「人は機会によって必ず成長できる。その機会を提供できる会社を創りたい」

そういう信念と情熱を持って始めた会社だから、現在の有り様を評価することが目的ではなく、現在の立ち位置のところから成長してもらうこと、あるいは成長できる環境を用意することが目的だ。

人を諦めてはならない。

人は愛を持って機会を提供したら必ず成長することができる。

まったく独立したふたつの会社だけど、ボクたちは常にその原理原則に立ち返って、自分を戒め、謙虚な気持ちで取り組まなくてはならない。決して感謝を忘れてはならない。

いろいろなことが思い通りに行かない時期にこそ、原理原則に立ち返ってベクトルを重ね、夢が実現していく様子をカラーでリアルにイメージすることが大切だし、成功しても、大成功しても、もっと成功しても、原理原則と初心に立ち返って、創業期や山の途中で苦しみもがいた時期、その時に歯を食いしばって頑張ってくれたメンバーのことを忘れてはならない。

05 12, 2007

マンハッタンの光の海で

定刻の午後4時45分にアムトラックはニューヨークに着いた。

その足でスーツケースをゴロゴロ引いて、数ブロックのところにあるエンパイアステートビルの75階「ニューヨークKATSU」の克ちゃんの事務所を訪ねた。

克ちゃんは同じ経営塾(*)で学んでいる塾生仲間。
*盛和塾
 http://www.seiwajyukuusa.com/

先週、日本やロサンゼルス、シリコンバレー、NY、ボストン、ブラジルの塾生60名近くが、ロサンゼルスに研修のために集まった。いわゆる経営者のための勉強会や発表会だ。

その打ち上げのBBQパーティは我が家でやらせてもらった。60人近いメンバーが集まる大パーティで、ホスト役のロサンゼルスの塾生が、遠くから集まってくれたメンバーのために精一杯のもてなしをした。

スシボーイの社長の横田さんは豪華な寿司桶を6つ提供してくれただけでなく、BBQを最後まで焼き続けてくれた。天皇陛下の昼食会で腕を振るった経験を持つメゾンアキラの広瀬さんはオードブルを担当。ラーメン工場を持つ山下親子は気を失うくらい美味いラーメンを親子で拵(こしら)えてくれた。また、かね福からいただいた明太子で、社長も弁護士も会計士も一生懸命におにぎりを握った。そんな贅沢で、手づくりの心温まるパーティだった。

そこにはニューヨーク塾の世話人の克ちゃんも来てくれて、今回ニューヨークに出張するボクをお返しに招いてくれた。

ボクが渡米したのとほぼ同じ頃、20年前に28歳で渡米した克ちゃんは、海外から仕入れた繊維をアメリカの大手アパレルメーカーに卸す仕事をしていて、ニューヨーク在住の日本人の間でも、アメリカンドリーマーとしてちょっと知られた存在だ。

今でも思い出すと恥ずかしいのだけど、以前にボクは「バリバリバリュー」という日本のバラエティ番組で紹介していただいたことがある。アホバカ面を公共の電波で全国に晒して今でも反省している。

実は克ちゃんもNYのバリバリさんとして紹介されていて、マンハッタンの75階のオフィスと、郊外にある敷地面積7エーカー(1万坪くらい)という桁違いに広い自宅が紹介された。家の中に池があるというからスケールがちがう。

マンハッタンで一番高い(以前は貿易センタービルだった)エンパイアステートビルの75階の角部屋からは日の出から日没まで眺めることができると言う。

マンハッタンがすっぽり視界に入って、その先には自由の女神が見える。ここから眺めると地球が丸いのがよくわかる。

世界最大の都市ニューヨーク。
ボクはマンハッタンの地べたに立つと、世界中から集まってくる人たちの野望や欲望、失望、絶望、苛立ち、ストレス、そういった「念」が紡ぎ出すナイフのような空気を肌で感じることがある。

それが、ここは天からうんと近いからか、あるいは克ちゃんや会社のムードがそうなのか、雲の上のようなふわふわしてやわらかい空気で溢れている。

克ちゃんによると、オフィスのコンセプトは「みんなが集う場。温かさ、リラックス、癒し」で、木(木目)、竹、藁(わら)、玉砂利、畳がふんだんに使ってあって、75階のビューだけでなく、室内の空間そのものも、心が解放されて、ボジティブで良い発想を引き出してくれそうな空気感がある。

ここに来たら立場も人種も関係なし。ここで夕暮れを眺めながらワインを傾けたら、みんな心の鎧(よろい)を脱いで「素」になるのだそうだ。よくわかる気がする。

間もなく、他の塾生も駆けつけてくれて、夕陽が沈むのを眺めながら、お互いの人生や夢を語って飲んだ。見栄をはったり、自分を大きく見せる必要もない。誰かが抱えている悩みを話したら、みんな自分のことのように受止め、アドバイスをする。経営者同士にしかわからない悩みもある。聞いてもらうだけで癒される痛みもある。

克ちゃんは会話を上手にリードしながら、時々席を立っては自らワインをサーブしてまわる。

そのうちにお寿司の桶が届いた。夜景と仲間とのおしゃべり、ワインと寿司。なんて贅沢なマンハッタンナイトだろう。こんなステキなもてなしはそうそう経験できるものではない。お客さんの多いボクは良いヒントをいただいた。

とっぷりと日が暮れて、室内の照明を落とすと、零(こぼ)れんばかりのマンハッタンの光の海にプカプカ浮かんでいた。

05 06, 2007

ボストンからNYへ

あと30分ほどでマンハッタンだ。

ボクは今、ボストンでの出張を終え、ニューヨークへ向かうアムトラックでこのブログを書いている。

前回の出張の時に悪天候で、陸路のアムトラックに切り換えたのだけど、その風景の美しさにすっかり魅せられて今回もアムトラックで移動している。飛行機の方が早そうだけど、マンハッタンのど真ん中までそのまま乗り入れるし(ニューヨークは空港からマンハッタンへの移動が必要)、何よりこうして風景を眺めたり、スペースがゆったりしているのが良い。

今回ボストンはわずか45時間の滞在だったけど、そのミッションは地元日系メディアとLCEの業務提携と、それによってボストンに将来拠点を開設するための重要なミーティングだった。

まだ詳細を明かせる段階ではないけど、同社のオーナーの瀧波さんとは概ね同意に達することができて、忙しくなるのはこれからだけど、ひとまず大役を逐えて胸を撫で下ろしている。

ボストンに飛ぶまでの日々も、ボストンの交渉の間も、また同社のスタッフと接している時も、一貫して「動機は善なりや、私心なかりしか」自問自答し続けた。

「動機は善なりや、私心なかりしか」

この頃、何をするにもまずこの言葉を自問する。本当に世の中に必要か。

世の中に必要とされる事業でなければ価値も意味もない。決してそこに私利私欲があってはならないし、ソロバンから入ってもいけない。最初にそこがブレると必ず失敗する。

若い頃の交渉のテーブルでは自分の利益が優先して、相手の利益までなかなかアタマが回らなかった。しかし、世の中に必要とされることと、相手の収穫や成功なくして、決して永続的な発展はあり得ない。また小手先の駆け引きやテクニックは必要ない。

相手の身になって、相手と心のパイプを通すことに集中することが一番大切だと思う。常に意識して自分を戒めないと、卑しくて狡い自分が顔を出す。

そんなことで、今回も誠心誠意、謙虚な気持ちで、これからパートナーになる人たちの利益を最優先に考えて提案をした。

正直、最初は話が核心に近づいては、話が遠くに行ってしまったり、真意が伝わっていないのか心配になる局面もあったけど、最後はガッチリ握手をしてボストンを後にすることができた。瀧波氏やスタッフのみなさんに心から感謝するとともに、必ずいっしょに成功したい。

出発の朝、最後のミーティングを終えて空港に向かう前に、瀧波さんがレッドソックスの球場に立ち寄ってくれた。

球場のまわりは、そこここの看板やショップ、レストランに日本語で歓迎の言葉が並ぶ。松坂への期待の大きさがわかる。ショップでは松坂グッズが一番場所を取っている。松坂シャツは英語版だけでなく、日本語、中国語、韓国語バージョンもある。ちなみに中国語では「赤靴下」と表現されていた。そのままやないか。

同店のグッズの売上は前年比400%で、日本人の売り子さんを6名も増員したそうだ。恐るべし松坂効果。ボクもにわかレッドソックスファンになって、刺繍の入ったTシャツと息子の土産を買った。

空港へ向かってボストンの町を走る。古い建物がならぶ街並は、どこかロンドンにも似ていて、晴れた日や夕暮れ時はどこでシャッターを切っても絵はがきになりそうな美しさだ。ちょっと暮らしてみたいような衝動に駆られる。

助手席の車窓を少し開けると、春のやわらかい風が入ってきてやさしく頬を撫でる。

ふと、小学校の校庭が目に入った。

新緑のグラウンドを、レッドソックスのシャツを着た男の子が元気に走っていく。その背中に「DICE-K」(松坂の名前ダイスケ。Kは三振の意味)と背番号「18」の文字が誇らしげに躍っていた。

05 05, 2007