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込山洋一

誇るべき日本の経営者

日本の経済誌「日経ビジネス」は、取材の深さや企画力、編集の切り口など、扱う情報や目的はちがうけど、本づくりのお手本にしているメディア。

少し前の号に、ボクが尊敬する経営者のひとり、花王の前会長の後藤卓也さんのインタビューに感銘を受けた。

抜粋しよう。

例えば、ヒット商品が生まれると、その商品の開発担当者が脚光を浴び、雑誌や新聞などで紹介されてちょっとしたヒーローになります。しかし、決して1人の力だけでヒット商品は生まれません。生産や物流、宣伝、営業といった一連のラインの努力が積み重なってこそ、売れる土壌が築かれます。
その裏には、商品の安全性を黙々と続けているスタッフや、3交代で夜中も工場で生産活動に従事している人たちなど、縁の下で支える社員がたくさんいるのです。こうした日のあたらないところにも目配りをすることが、経営者である自分の役割であると思ってきました。そのため、折あるごとに全国や海外の事業所を行脚し、社員に対して「あなた方のやっている仕事には1つとして無駄なものはない」と説き続けてきたのです。

社長7年、会長4年の在任中も、一部上場企業のトップにして電車通勤。運転手付きの社用車も個室も持つことはなかった。

それでいて、社長在任中は増収増益も成し遂げた。

どこかの国の潰れそうな自動車会社のトップが、ワシントンにプライベートジェットで乗りつけたのと、人としての有り様がちがう。経営者としての腹の括り方、心構えがちがう。

(GMとクライスラーが潰れてしまっては、社会へのインパクトは大きいし、当然この日系社会にも痛みを伴うだろうけど、血税を注ぎ込んでまで支援をしてはならないし、その価値はないと思う。だったら救うべき無名の企業は数千倍あるだろう。小さな個人経営の会社は、経営者がピンチの時は、家・土地・財産を処分しても命をつないでいるんだ)

日本の首相とオバマだけをとって比較しても、日本の指導者たちの志は、世界中どこに出しても恥ずかしいけど、日本の誇るべき経営者は世界でも超一流だと思う。

経営者だけじゃなく、組織人、技術者、役人、教育者、ボクらの母国の人たちは世界でもっともっと活躍して、規範になれるポテンシャルを持っている。

一方で、資源もない、人口も減少していく日本人が、同じような努力や工夫で、他の先進国や、台頭する資源を持った大国のなかで生き残っていけるわけがない。よっぽど一人ひとりが頑張らねばならない。と思う。

11 29, 2008

シンドラーズ・リスト

穏やかな土曜日の午後。
書斎でひとり、スピルバーグの「シンドラーズ・リスト」を観た。

ボクはいつも感情移入し過ぎてしまう。

それを引いても。
ほんの少し、生まれた時代や国がちがっていたら、映像の中で迫害され、虫けら同然に殺されていったユダヤ人の中に自分はいたかもしれない。もっとおぞましいのは目を覆うような残忍な殺戮に無神経なドイツ人の中にいたかも知れない。と、思う。

考えてみたら、同じ時代にボクらの同胞の日系人だって、家土地財産すべてを奪われて強制収容所に追われて辛酸を舐めたのだ。

今、ボクらは安全の中で暮らし、財産が守られ、家族や仲間と笑顔で生活できること。

水道を捻ったら水もお湯も出て、明日の米(パン)に困らない生活。

ボクらは当たり前ではないことに慣れ過ぎてしまっている。

実は実は、それは錯覚であって、今同じ地球で銃に怯える生活、餓死で命を落としていく子どもが存在するのだ。

空襲や爆撃や悲鳴が聞こえない生活を当たり前に感じているけど。

「自分だけ」「自分の身内だけ」「自分のコミュニティだけ」「同胞だけ」

映画を見て、改めてそれじゃイカンと思った。

何をしたら良いか、何ができるかもわからないけど、どうもそれではイカンと思った。

すべて人の心の中に、
莫大な財産をすべて投じて1200人を越えるユダヤ人を救ったシンドラーが必ず存在する。

すべてに人の心の中に、
鬼も、詐欺も、怠け者も、自分を犠牲にしても人を救える良心も、すべて内在するのが人間だと思う。惨くて儚い。優しくて強い。

ラストシーンで、片腕のユダヤ人イザック・シュターンが、オスカー・シンドラーに、ユダヤの格言「ひとつの命を救う者が世界を救える」と語りかけたのは、きっとスクリーンのこちら側にいる、世界中の人たち(ボクたち)だったのだとしばらく経ってわかった。

11 23, 2008

仲間へ

11月10日に全米家電小売り2位のサーキット・シティ・ストアーズがチャプター11(連邦破産法)に基づく会社更生手続きの適用を申請した。

身近なところでも、出張から帰ってきてこの3日の間だけで、仲間のメディアが休刊を決め、また親しくなったばかりの不動産業界の起業家の方がいったん帰国を決めた。直接の知り合いではないけど、現在の社屋を決める前にオファーを入れたビルの持ち主が破産したことを一昨日担当者の知らせで受けた。

薄っぺらな世間の評価に、失敗したら負け組、儲かったら勝ち組という見方があるけど、それはちがう。

失敗も成功もその瞬間を輪切りにした状態であって、その後のベクトルとは関係ない。

世間が失敗の烙印を押しても、そこで得た教訓を余すところなく活かし、バネにして、這い上がろうとするなら、その瞬間は成功へのスタートラインだし、成功とまわりが賞賛しても、危機感を持たず、我が世の春と慢心し、己のチカラを過信したならば、すでに足元は崩れはじめているだろう。

10年以上も前、ボクはある別の会社を畳んだことがある。(いや、失敗を数えたらきりがないんだけど)

気が遠くなる借金の返済、モールの家主さんへの残額の支払いの交渉(というより減額のお願い)、従業員の再就職先のお願い(パートナーが引き受けてくれた)など、閉めるにも莫大なエネルギーとお金が掛かった。そもそも、そこに至るまで、ボディーブローのように毎月ジリジリと負債が膨れ上がっていく。
結局、持ち家を処分して清算した。

あの時、奥歯が食い込むくらい悔しかったし、情けなかったし、まわりに心底申し訳なかったけど、そこで得た教訓は確実に血肉になっているし、バネになっている。

実はその後も懲りることなく、失敗を繰り返すのだけど、順風満帆の時より、失敗や撤退から学ぶことの方がはるかに多い。

ボクの事例など何の参考にもならないけど、世の中の歴史に名を刻むような成功者は例外なく大きな失敗をしている。歴史に名を残さずとも、まわりの偉大な経営者や成功者も必ず一度や二度、いや何回もペチャンコにされている。そしてそこから這い上がったのだ。

「もう歳だから」はちがうと思う。
5年後より、10年後より、今の方が5年も10年も時間を貰えたのだから。

人が何と言おうが、後ろ指を指そうがバカにされようがそんなの関係ない。

今こうして生きていることがそもそも100点満点の感謝で、そのうえにさらに、世の中に自分のことを心配したり、わかってくれる人が、一人以上いたなら言うことないではないか。あとは感謝とヨロコビの足し算だ。生きていたらどこからだってやり直せる。復活できる。

この思いを、いったん退席する仲間に捧げたい。

しっかり充電したらまた頑張ろう、いっしょに!!!ひとりじゃないから。

11 14, 2008

世界日本語メディアアライアンス誕生!

今回日本で第一回目の総会を実現した世界日本語メディアアライアンスのことを書こう。

この会は、

1)世界中で「個人が学び、働き、活躍できる」世の中を創る
2)スタッフやその家族・友人が誇りを持ち、物心両面で幸せになれる業界を創る

この2つの理念に共感する日本語メディアの経営者の会で、「同志の会」であり「研鑽の場」を目指している。

ひとつひとつは地域の情報誌であっても、手をつなぐことで、
カバーする都市や国は、NY、LA、サンディエゴ、ハワイ、北京、上海、香港、大連、(以下、国)タイ、ベトナム、インドネシア、マレーシア、シンガポール

8カ国13都市にのぼり、
各社の読者数を合わせると、海外在留邦人の70〜80%をカバーするメディア連合体になる。その数(発行部数、推定読者数)は日本の主要な週刊誌やメディアに決して引けを取らない。

ボクらが手を取り合えば、各社が根を張る地域の日系社会の活性化・拡大はもとより、もっともっと個人が海外で活躍するための情報インフラを築くことができるだろう。もうこれは願いというよりボクらの使命だ。

そんなことで、遡ること11月1日、銀座に本社を置くチャイナ・コンシェルジェの会議室を借りて、どっぷり一日議論をした。

例えばテーマは、各社が人材採用や教育をどのようにしているか、また営業戦略、研修制作のノウハウなどの情報交換。

記事コンテンツの共同制作や共同仕入れについてのアイデア出し。

あと、活発に利用はしてもらっているけど、なかなか収益につなげにくいウェブサイトをどうやって繁盛サイトに進化させるかについて、すでに成功モデルを確立しているメディア経営者がそのタネを明かしてくれたりする。

どれをとっても情報誌経営に役立つ実践的な深い議論を交わすことができた。

そういった目に見える収穫だけでなく、大いに感激したのが、各社ともに惜しみなくノウハウを情報提供してくれたこと。

言ってみたら、タレが勝負の焼鳥屋が、秘伝のタレのレシピを配るようなものだ。自分たちが5年も10年も(あるいはもっと)かけて作り上げたエッセンスをポンと同業者あげるなんて並大抵のことではない。

だけどそれができる人にはそれ以上のものが還ってくるのが世の常だ。

あらためて立派な経営者仲間に集まってもらえたことを感謝した。

第二部の懇親会は会場を移して、おでんや季節の肴を囲んで盛り上がった。前日39℃を越える熱を出してひっくり返っていたボクはウーロン茶で完敗、いや乾杯。

次回の開催地はわれらがロサンゼルス。2009年5月5日に実施予定。

11 13, 2008

遠くへ、遠くへ

3週間の日本とアジア出張から日曜日に帰国。
出張前半に大学で講演をしてまわったことや、大阪版満員電車に揺られたり、ちゃんこを食べて感激したのが遠い昔のようだ。

帰路は、土曜日の深夜にマレーシア(クアラルンプール)からシンガポールに入って、空港内のホテル(なんと搭乗ゲートと隣接!)で仮眠を取り、早朝出発から東京経由でロサンゼルスに帰ってきた。

まず、シンガポールからマレーシアの飛行機の予約が、リコンファームがないという理由で落っこちていた。(こんなことはしょっちゅう。きっと何とかなるし、なってきた)

それから、シンガポールでの乗り継ぎ(空港内ホテル宿泊)は本来通関の外に出てはならないのに、知らないでうっかり外に出てしまったものだから、深夜でボーディングパスを発行してもらえず、危うく野宿の人になるところだった。(24時間の空港のヘルプデスクのお嬢さんたちが必死に通関に交渉して入ることができた)

最後までハラハラドキドキ楽しい出張だった。

思えば、マレーシアの空港に着いてから、ロサンゼルスの通関を抜けるまで26時間のロングトリップだったけど、窓の外を眺めたり、メールの返信をしたり、本を読んだり、眠くなってはコックリコックリしているうちにあっという間に帰ってきた。長旅がちっとも苦にならない。

ボクは小学生の頃、週末はポケットに数百円の全財産を入れて、ママチャリ(フツウの自転車)で、それも時には近所の子どもとタンデムで、大人がビックリするくらい遠くまで走る少年だった。

故郷の讃岐山脈を越えて徳島県の吉野川まで訪ねた時は、目算を誤って、登っても登っても風景が変わらない帰り道、いつの間にか闇が降りて心細くって泣きそうになった。

やがて10代はヒッチハイクの味を覚えて、遠くに行く時はトラックの運ちゃんの好意と退屈しのぎに甘えて日本のあちこちを旅するようになった。知らない世界、ちがう境遇の先輩たちとの会話は教室の1000倍楽しかった。

19の時、運輸省航海訓練所の帆船日本丸で、冬の北太平洋を風のチカラだけで45日かけてホノルルまで辿り着いた。

ディスコもコンビニも信号もテレビもない世界。そして女性がいない野郎だけの世界。

風呂は海水。洗濯はタライで手洗い。毎朝、ヤシのブラシで甲板磨き。

毎日風景は水平線。朝晩海面から55メートルの高さのマストに、裸足で登って水平線を眺めると、本当に地球が丸いことを実感した。

天の川は、本当に夜空に大きな川が横たわっていることも、星座が教科書に出ている点と線ではなく、星座そのものであることも、月のない夜空が教えてくれた。

六分儀で星や太陽の高度を測って、手計算で船の位置を確認する毎日。
その延長線上に、ホノルルも、アメリカ大陸も、南半球のタヒチもあった。人間ってスゴイ。

海の向こうに陸があって、そこには灯りがあって、まだ見ぬ人の営みがある。

遠くへ、遠くへ。

あれから20数年。ボクの性質はあんまり変わっていないようだ。

11 12, 2008

日本出張後半戦

ブログのアップは一週間ぶり。
シンガポールからです。

今日は11月6日。地元の日系メディア「COMM」社のデスクを借りてシゴトをさせてもらっている。

ブログをアップする間もないこの一週間を駆け足で振り返ってみたい。

一週間前の今頃は朝イチの飛行機で新潟から、研修を作らせてもらっている岐阜の美容専門学校を訪ねた。

理事長が熱い方で、教職員の方もみな明るく礼儀正しい。学生もアルバイトで学費を稼ぎながら通う若者が多いそうだ。

JR岐阜駅直結の玄関には「歓迎」の筆文字。
玄関ホールには、以前に理事長とがっちり握手したボクの写真を飾ってくれている。
ちょっと気恥ずかしい。

学生たちに講演会をさせてもらう。

美容師は、人をシアワセな気持ちにできる素晴らしい仕事で、言葉や国境を越えて活躍できる。
世界中で活躍できるよう、今日目の前の授業を真剣に取り組んでください。そして学校で、社会で、技術を徹底的に磨いてください。
みんなの先輩たちが海外で活躍して道をつけてくれている。
みんなの机と世界は繋がっているんだよ!

そんな話を事例をあげながらさせてもらった。

理事長と駅で蕎麦をすすって、慌ただしく名古屋へ。

名古屋ではC大学で来年以降の海外研修をカリキュラムにどう組み込むかのミーティング。
この大学もトップをはじめ、教授も、経営サイドも熱い方が多い。議論が常に建設的で話が早い。

合間に献血車で献血をした。ちょっとふわふわする。

夜はいっしょにプログラムを育ててきたS教授夫妻と未来の学校教育を語りながら会食。

S教授は奥さんもふたりの子どものみんな学校の先生。いつも教育を通して世の中を良くしたいと願っている。

翌朝7時の新幹線で東京に移動。
10時からのミーティングの最中は宙を浮いているみたい。すこしカラダが軋んできた。

午後は役員会に参加して、夕方も大切な会食。
が、2時間経った頃、ヤバい、倒れそう。カラダがうまく支えられない。

クライアントと木田に詫びて失礼する。
カラダがブルブル震える。アタマで目玉焼きが焼けそうなくらい熱い。

ホテルで体温計を借りて熱を測ったら39.6℃。

それを見てもう一回ふらふらする。大人になって、いや、記憶にある中でこんなに熱出したのは初めて。家内からボクは「痛がり、苦しがり」といつも茶化されるけど、さすがに日本に来て張り切り過ぎて電池が切れてしまったようだ。

頭痛と悪寒でよっぽど救急車を呼ぼうかと思ったけど、何とか朝を迎えることができた。

ホテルで調べてもらって高輪の病院に行ったら、保険証もないし初診なのに親切に看てくれた。ありがたい。

肺炎の恐れもあるとレントゲンまで撮ってくれて7千円くらいだった。
日本って、医療費が高いと文句を言うヒトが多いけど、アメリカに比べたらうんと恵まれている。

その日はミーティングもアポイントもキャンセルさせてもらってホテルで薬を飲んでひたすら眠り続けた。我ながらけっこうタフなスケジュールに持ちこたえてくれたカラダに感謝。

そうそう。翌日は今回の出張のハイライトのひとつ。世界メディアアライアンス。こちらも大成功。(すごくはしょってるけど)この話は機会を改めたい。

そして週明けから熱風大雨の大躍進国シンガポールへ。

(つづく)

11 06, 2008