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込山洋一

JALの就任会見から学んだこと

 221日の朝。

今朝はまたまた冬の朝に逆戻り。

バイクのトレーニングで半袖のウェアのまま坂を下ると上半身が氷結するかと思うくらい寒かった。

深呼吸すると冷たい空気が肺に入っていくのを感じる。こんな朝もまた清々しい。

息子をサッカーに送って、練習が終わる正午まで誰もいない静かなオフィスで、資料や数字に目を通している。部屋から見える木々は風に揺れているけど、音は聴こえてこない。

玄関ホールのすぐ脇にあるボクの部屋は、全面ガラス張りでちょうど上野動物園のパンダみたいな感じだ。

初めての来客の方には、指を指したりカメラを向ける人こそいないけど、珍しい動物を見つけたように喜ぶ方、「見ちゃいけない」と表情を硬くする方がいる。

穏やかな笑顔で会釈をするよう心がけているけど、クスッと笑ってしまうこともある。

 

昨夜はボクの学ぶ盛和塾の自主勉強会で「日本航空の経営再建を託された稲盛和夫さんの就任会見から何を学ぶべきか」について話し合った。

ボク個人で言うと、

現在ライトハウスは、ロサンゼルス、サンディエゴ、ハワイ、京都の4つの拠点で事業を運営している。これからの5年10年で、それぞれをいっそう強化しながら、さらにその数を増やしていこうと構想している。

そんな中で、いかに物理的に離れた地域のメンバーと、

心を重ね、

視界を共有し、

ベクトルをひとつに同じ方向に向かっていけるか、

同じ温度で戦っていけるか、そのことをいつも考えている。

その答えを、稲盛さんは就任あいさつの中で指し示してくれた。

 

以下、引用。

「企業のもっとも大切な財産とは、そこに集う社員や、さらに言えばその社員の心だと思うからです。

社員の方々が心から再建を望み、心から協力するならば、その企業は発展し続けることができると私は固く信じています。

そのように考えているので、今後はできるだけ現場を回って、1人1人の社員と対面し、ひざを接し、彼らが何を思い、何を感じ、何を考えているのかを直接聞き、また私の思いもお伝えし、彼らが「さらにJALグループで働きたい」「再建に協力したい」と思うような企業風土を作っていきたいと考えています。

以上、引用。

 

そうなんだ。

社員と心を通わせるのに、気持ちを重ねるのに、近道なんてないのだ。

78歳の稲盛さんが老体に鞭打って「できる限り現場を回って」世界中で6万人もいる大組織の1人1人と会って、耳を傾け思いを伝えようとされている。6万人の社員とその家族を救いたいと心から願っている。そこに一切の私利私欲がない。

ボクはと言えば、すぐに自分の欲や都合や横着が思考に乱入しそうになる。わずか30人そこらの小さな所帯でコミュニケーションが足りないなんて、何を甘えてるんだと恥ずかしくなった。

もう50人になろうが100人になろうが、はたまた5拠点になっても10拠点になっても、現場に足を運び、ひざを接して、耳を傾け、思いを伝え続けなくては、もっともっと社員を愛さなくてはと耳を熱くして反省した。

ボクはこんなにも恵まれた仕事や社員、お客さんやベンダーさん、健康(体力)とバイタリティ、そして僅かだけど才能だって与えてもらっているのだから、死ぬ瞬間まで頑張り続けなくっちゃならない。甘い甘い。

02 22, 2010

有言実行!

 2月18日。今日から自転車を再開。

まだ寒さが残るけど、目覚めに海から吹き上げる風のシャワーは心地良い。

パロスバーデスの山の麓で相棒のKさんが合流してUターン。再び頂上付近にある我が家を目指す。途中、野生の孔雀(くじゃく)がそこここに出現する。もうありがたみがないくらいたくさん。ヤツらは人に慣れていて、すぐ横を走ってもいっこうに気にしない。それどころか、こっちのほうが避けて走っている。

それにしてもカラダが重い。感覚じゃなくて事実なんだな。両脇から赤ちゃんに抱きつかれたまま漕いでるみたい(肩の上より良いけど)。家に帰ってくる頃にはもうへろへろだ。

それでもこの小さな達成感が清々しい。入念にストレッチして、熱めのシャワーを浴びて一日に備える。

 

今年のボク自身のスローガンに、

「過去最大成長を実現する一年」

「いっさいのやましさ、私心のない愚直で純粋な経営」

を掲げているのだけど、じっと待っていても何も動かない。

今年はこれまで仕込んできたことの収穫と、準備運動や予行演習してきたことを実行に移す年だ。

出張でいうと、

日本に5回(約10週間)、サンディエゴに5回(約3週間)、ハワイに5回(約4週間)、シカゴ&NYに2回(1週間)、他にマル秘(でもないのだけど)の都市に3回(2週間)。

って計算したら20週間。50週のうち20週遠征していることになる。

こんなに遠征ばかりしていられるのも、ボクが不在中の城を守ってくれる幹部、メンバーがいてくれるおかげだ。

「短期(目の前)」の攻めと守りを安心して任せられることで、ボクはどれほど「中長期」の攻めに専念できているだろう。つくづく恵まれた経営者だと思う。

そんな中、今年に入ってロサンゼルス版もサンディエゴ版も、昨年の同じ号の売上を5号連続で上回っている。景気の底打ち感もあるが、それ以上に、新年明けてから100メートル走のペースで全員が全力疾走しているのが大きいと思う。この記録はどこまでも伸ばしたい。

見渡せば、点火しなくても自ら燃えることのできるメンバーが増えていて頼もしい。

ハワイ版も、メンバーの歯ぐきから血が滲むような奮闘ぶりで売上を伸ばしている。昨年末の創刊準備から土日正月返上で走ってきた成果が少しずつ現れてきている。地元日系社会のみなさんの応援にも導かれている。

石に上にも3年。ハワイはこれからの50100年の礎を作る大切な時期だ。上にも伸ばしたいけど、それ以上に深く深く根をおろしたい。大きな幹をつけられるように。

もうひとつの柱に成長しつつある国際教育事業部も、日本サイドの火の玉1万ダース級の営業で、(旅行業界や教育市場が急激にシュリンクする中)鮭が川を垂直に上るように驚異的にアカウントを増やしている。USサイドも過去に例がないくらい充実した顔ぶれが揃ってきた。今は山の中腹すら霞んで見えないけど、国際教育研修の領域で必ず日本ナンバーワン、オンリーワンになるのだ。日本のパートナーの高畠が還暦になるまでに。もう10年ちょっとしかないから急がなくては。

今年はこんな大不況だからこそ、過去最大成長したい。

そして来年はそれをさらに上回る過去最大の成長をしたい。

有言実行。自らの人生をもって実証するのだ。

こんな未熟なライトハウス軍団でも死ぬ気で頑張れば伸びるんだから、ワシらもいっちょ頑張るかい!

まわりのすべての人たちがそう思って全力投球をして、さらにそのまわりの人たちも全力投球して、さらにそのまわりの人たち全員が全力投球になって、いつしかみんな世の中の創り手にまわったら、とても居心地の良い世の中になるにちがいない。

02 19, 2010

経営の神様

 2月16日火曜日。

今日は1日オフィスワークなので、ランチはお弁当。毎日配達してくれる業者「さかい」さんで「サバ弁当」$5.50をオーダーした。

ボクは、マグロやシャケ、カツオなどのアレルギーになる前から、魚で一番サバが好きだ。味噌煮や粕漬け、しめ鯖、どうやって食っても美味いけど、シンプルに塩焼きで食べるのが一番美味い。また美味いだけでなく、栄養満点でカロリーがそう高くないのもよろしい。

ボクは以前に1年くらいかけて体重をドッサリ落としたのだけど、この一年でまたキッチリ元に戻してしまった。ゴーンさんも真っ青のV字回復を達成したので、再びサバやコンニャクの力を借りて6パックを取り戻そうと企んでいるのだ。

それはいい。

弁当をいただきながら、日本の仲間が送ってくれた記事のコピーをめくった。

「特集 松下幸之助VS稲盛和夫」(月刊ボス3月号より)

ボクがもっとも尊敬するふたりの経営者の特集だ。

面白いのは、この特集によると世界で「神様」と呼ばれた経営者は、松下さんと稲盛さん、たった2人だけなのだそうだ。

例えば海外だと、

フォードが「自動車王」

ヒルトンは「ホテル王」

「王」、あるいは「巨人」なのだそうだ。

日本国内に目を向けると、

「明治という時代を耕し、株式会社を栽培した男」と日本経済史に名前を刻む渋沢栄一さんにして、「近代産業の父」お父さんなのだ。

安田善次郎さんは「銀行王」

古河市兵衛さんは「銅山王」

豊田佐吉さんは「発明王」

小林一三さんは「今太閤」

怖いところでは、

松永安左衛門さんの「電力の鬼」

吉田秀雄さんの「広告の鬼」

神様はいない。

しかもこの2人はなんと生存中に経営の神様として信仰に近い思いを持って語られている。

この特集ではその「理由」について様々な角度から分析している(ようだ)。

中身についてはまた改めて書きたい(まだ途中なのだ)

02 17, 2010

親父は磨き砂

 長患いしていた妹(弟の嫁)の父親が亡くなり、沖縄でお通夜や葬式で走り回っている弟から電話が入った。

「突然親父から電話が入ってな、沖縄に着いたって。空港からやで。

もちろん、そのことは親父にも電話で知らせたけど、来るとか一言もなかったから慌てて迎えに行ったわ。

なんちゃ(何にも)言わんとふつう来んやろ。あいかわらず、コミュニケーションが取れん人やわ。

それでもお線香をあげてくれた時、ありがとうって思たよ。よぅ来てくれたって。

でも、そこまで。

後は朝から晩まで酒びたりや。

飲み過ぎでトイレ近いから、みんなが乗る移動のマイクロバスにも乗せられん。もう一台別の車で送迎しとんで。VIPとちゃあうんやから勘弁してほしいわ。

もう、みっともなくて、美樹ちゃん(妹)の親戚に恥ずかしい。(ふ〜)」

弟のため息が太平洋の海底ケーブルを通して聞こえてきた。

一瞬、子どもの頃、失業中の親父が家でごろごろしているのを友だちに見られたくなかった自分を思い出した。

「それ、今に始まったこととちゃうやろ。父ちゃんはオレらの磨き砂や。修行修行」

「また人ごとみたいに。(ふ〜っ)

でもビックリするくらい顔色は良うなったの。(笑)」

「ホンマじゃ。ありがたいことやぞ。元気なんやったらそれで良しとせな」

「まぁ、確かにのぅ」

受話器を置いてしばらく、この家庭環境というか親子関係、弟がいるおかげでずいぶん救われてるなあと思った。(ヤツも思ってるかもしれないけど)

それにしても親父はボクら兄弟を鍛えてくれる。

02 06, 2010

残されたものがやるべきこと

受験勉強で寝る時間を削って頑張る娘に、そういう記憶がない父親としてはもどかしい思いで見守るしかない。

「パパがその問題集を全部正解で埋めて、朝までにはすっかりアタマに入ってしまう魔法をかけてやろうか」

つい、いい加減な言葉をかけると、

「う〜ん、大丈夫。その魔法が流行ると世界中みんなが賢くなっちゃうからね。それもいいけど自分で頑張ってみるよ。ありがと!」

やさしくかわす娘。

こうして親子の緩やかなキャッチボールができる時間は有限だ。

なんでもない会話、朝晩のハグ、朝学校に送る習慣、いっしょに立つキッチン。

 

昨日の明け方、沖縄にいる妹(弟の嫁)の父親が息を引きとった。

突然ではなく、倒れてからの時間は長かったし、この日に備える時間としても短くはなかったろう。

救いは、妹が病に伏した父親を半年近く看病できたこと、危篤の知らせを聞いてその日のうちに駆けつけた弟が間に合ったこと。

「お父さんが逝く前に、ありがとうって言えて良かったよ」

いつになく、感情を押し殺した低い声で受話器の向こうの弟が言った。

ボク自身は、妹の父親とそれほど面識もなかったし、80歳も過ぎているので十分に長生きできたと思う。むしろ、母親が20年近かった父親や旦那さんの介護から解放されて、その意味では良かったと受け止める。

それでも、弟の嫁にしてふだん泣き言も愚痴も言わない妹が悲しむことを思うとつらい。

 

気のせいだろうか。

40歳を過ぎてまわりの人を見送ることが多くなった。

ボクは燃え尽きるように生きたい反面、自分の生に対して強い執着はないし、むしろ見送っていくことのほうが辛い。

80も、90も生きて、大切な人、友人や社員、自分よりも若い仲間を見送るなんて耐えられないかもしれない。ライトハウスという会社(メンバーの老後のメドを含め)の道をつけて、子どもたちを一人前に社会に送り出したら十二分だ。

生きているようで、生かされているのが人生だ。

自分でコントロールできるのは、お迎えがいつ来ても後悔しないくらい今この時この瞬間を精一杯生きることだと改めて思った。

 

02 04, 2010

2月スタート!

 いよいよ今日から2月だ。

気持ちが引き締まる。

今、6時40分。外はまだ薄暗い。

今朝は4時前に目が覚めたのでそのままデスクに向かって、出社前にできることを一気に片付けた。電話や相談事の中断がないのでサクサク進む。

昨年後半、アレルギーの薬を服用するようになって、副作用で早起きの習慣が崩れてしまっていたけど、時差のあるうちに朝型のリズムを取り戻すのだ。

週末は久しぶりに、娘と運転の練習をしたり、カミサンと朝市に出掛けたり、またキッチンに立って家族と食卓を囲んだりとしっかり充電できた。寝る前に、息子が背中を歩いてくれて肩こりも取れたしね。

今週は金曜日あたりに息切れするくらいに飛ばしていきたい。

やらないこと、やめることを明確にして、やるべきことに焦げるくらい集中しよう。

02 01, 2010

LAまで21時間

 一昨日の金曜日、ロサンゼルスに帰ってきた。

日本では東京と大阪でひと仕事をして、最後の日は父親の暮らす山口県の萩を訪ねた。

萩からロサンゼルスまで、乗り継ぎを含めると21時間くらいかかる。

朝7時に出発。堀内にある伯母の家からタクシーで最寄りの停留所まで10分。

そこからバスで1時間半、日本海の荒波を左手に眺めながら萩・石見空港に向かう。

この風景が直球でドシンとくる。

石川さゆりからビリージョエルまでどの歌が合うか、声に出して試してみたけど、良い風景は懐が広いことがわかった。悲しくてもうれしくてもひとまず日本海はおススメしたい。

途中20カ所余りの停留所を通過したけど、その日はバスセンターの停留所でいっしょに乗ったおじいさんと若い女性の2人以外には誰も乗り降りがなかった。

来る時の新山口から東萩も1時間半の間に5人の乗客だったから、地方の公共交通機関は採算だけ考えたら成り立たないことがわかる。地方の行政は効率や損益だけではないのだと感じた。

空港は「萩・石見空港」という名前だけど、島根県にある。千葉にある「新東京国際空港」みたいなもんだ。発着便は1日に東京が各2便、大阪が1便、札幌が1便の計4本。

チェックインカウンター周辺に3人、荷物検査の機械のところに3人、全部で6人も若い人を配置していたけど、いかにも暇そうだった。バックヤードの職員を合わせたらその倍の人数は働いているのだろう。空港の売店も食堂もガラガラで、家賃がタダでも人件費が捻出できるようには見えない。財源は税金だろうに良いのだろうか。ここは悪いけどリストラの余地がある。半分の人数で回してほしいと思った。

そんなことを考えながら飛行機に乗り込み、1時間あまりで羽田に到着。思えばバスに乗っている時間より短かった。

そこから羽田と成田を結ぶリムジンバスに乗るのだけど、次のバスの時間まで15分しかない。ガーン。

そこへ持ってきて、2日前にスーツケースを入れたコインロッカーがない、ない、ない。みんな同じ風景。

空港案内所に尋ねて、ようやくロッカーを見つけたものの、今度は100円玉が足りない。

大丈夫、まだ5分ある。気持ちを落ち着かせて両替機に1000円札を入れると、しばらくしてそのままお札が戻ってくる。シワを伸ばしたり、裏表にしてもアウト。思わず阿波踊り。

残り3分!(1便遅らせたら良いだけなんだけど)

必死の形相で東京バナナの売店に駆け込み、500円硬貨2枚に両替。

スーツケースを引っ張りだして、チケットを購入して、バス停に駆け込むと同時にバスが着いた。やれやれ。である。

週末のせいか道路は空いていて、風景に見入っているうちに成田に着いた。

ところであの空港手前の、ニューヨークでもヨーロッパでも見ることのないセキュリティチェックって何なんだろう。

それらしい制服を着た職員がバスに乗り込んでは、もっともらしくパスポートのチェックをしていくのだけど、なにかの「チェック」や「予防」になっているようにボクには見えない。

ボクの腰に拳銃があっても、バスの荷台にバズーカ砲が入っていても、この程度のチェックでは見つからないし、むしろフィルターを強化するなら空港に入ってからのセキュリティーチェックだろう。

きっとあのゲートのチェックだけで100人くらいの人が雇われているのだろうけど、成田空港を作る時に地元とエラく揉めたから、その駆け引きのカードのひとつが、こういうつじつま合わせのような地元民の雇用だったのだろうなあとつい穿った見方をしてしまう。

ここだけで施設の維持費や人件費で年間に数十億円はかかるだろう。こういうのが日本中いたるところで積み重なってとんでもない重税となって企業や個人にのしかかっているのではなかろうか。

税金の使われ方もこの機会に精査しないと、企業や個人は決して打出の小槌じゃないから、あまりぶら下がりすぎると競争力を削いでしまうのではと心配になる。

足の引っ張り合いで地盤沈下が心配な日本だけど、鳩山さんには世論に右往左往せずバッサリ大胆な改革をしていただきたい。また、無責任に国民を不安にするマスコミにはぜひいっせいに海や川に飛び込んで、サメかワニのエサになっていただきたい。日本の未来のために。この国にこれ以上、口を動かす人はいらない。いっしょにベクトルを重ねて汗を流す人がほしい。

国を憂う前に心配すべきは我が荷物であった。

バスを降りてしばらくして、何かもの足りないというか身軽であることに気づいた。

心かぁ?

ちがう、ジャケットだ!

パタゴニアのダウンジャケット、バスに忘れた!

ボクは全力で走りながらどこに走るべきか考えた。

02 01, 2010

また親父に一本とられた

 1月28日、日本最後の日は、新大阪から山口県の萩に暮らす父親を訪ねた。

新大阪駅から新山口駅へは新幹線で2時間弱。ここから路線バスに乗り換える。

瀬戸内側の新山口からバスで北上して、中国山地を抜けたところに萩がある。

松下村塾の吉田松陰をはじめ、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文など、明治維新の主役を数多く輩出したこの街も、今では日本海側の静かな一地方都市としてその面影を残すばかりだ。

ボクは四国で生まれて育ったけど、半分長州萩の熱い血が流れていることをすごく誇りに思っている。

父親は幼い頃からここでヤギの乳を絞り、畑を手伝い、魚や野鳥を捕って育った。

社会に出てからは、よく転職や失業もしたけど40年船乗りであり続けた。

50代後半くらいか、弟が結婚した頃に母親とは離婚して、ボクら兄弟がいるアメリカに生活の重心を移していった。

「移していった」というのは、ある時を境にということではなく、時々ピンチヒッターのような感じで、縁のある船会社が船長を休ませる時の代打船長として年に数ヶ月だけ現場に入っていた。

永住権を取得してアメリカに完全に移ってからの10年近くは、ボクら家族といっしょに暮らした時期もあったけど、リズムや習慣や価値観をうまく重ねられず、近所にアパートを借りて独り暮しをするようになった。

親に懐かず相談せず、中学からはまったく家に居着かなかったボクは、家庭を持って初めて父親とコミュニケーションを取るようになった。

そんなだから、何でも上げ膳据え膳で、やってもらって当たり前の父親に、家族全員サプライズの連続だった。

それでも何とか、身勝手とも思えた生き様の「言い分」は会話を重ねる中で理解できたし、一方で、気性の激しさばかりがクローズアップされた母親の「理由」も痛いほどわかった。どっちも無軌道に見えて、責任を果たし、辛い時間を耐えてくれていたのだろう。

父親が家を出た後も、週日は毎日午後までボクの会社を手伝い、週末はいっしょに過ごす、そんな距離感でつかず離れず数年が流れた。

在職中は、父親の部屋でライターを点けると爆発する(そのくらい酒臭い)というウワサに胸を痛めたり、毎朝あたりかまわず「くわっ!」っと大声で痰を切る音に、涙がちぎれそうになることもあったけど、スタッフはみな笑顔で「おとうさん」と声をかけ、話し相手になり、ずいぶんと大事にしてくれた。

去年の今頃の送別会では、みんなから父親の名前「hiroshi」をデザインして刺繍した特製のシャツが贈られて、目のまわりを真っ赤にしていた。

 

「そのまま」もあったけど、70歳になって2回目の小さな自動車事故をした時、

これ以上運転を続けて第3者を傷つけるリスク、日本語での医療、福祉の充実度、仲間の存在(有無)、それらを考えて半ば強引に日本帰国を決めた。

日本帰国直後もすったもんだあったけど、今は萩近郊にあるシニアの施設に入ってようやく新しい生活が落ち着き始めた。

温泉付きのこの施設は、バスとトイレのついた個室に、24時間セキュリティ(鍵などいらないような田舎だけど)と医療の対応、栄養士による3度の食事、週に1回のカンタンな検診がサービスに含まれている。

町に出るバスは1時間に1本、コンビニまで歩いて10分もかかる不便な立地ではあるけど、施設の人はみな親切で、まわりも同世代ばかりなので、親を日本に置いて、海外に暮らす身としては申し分ないし心から感謝している。

 

東萩駅に着くと、従兄弟のアキラさんが迎えにきてくれていた。

アキラさんは従兄弟といっても還暦を過ぎていて、幼少時は父親の弟のように育った。昔、親父が外国航路に乗っていた頃、帰国の度にオールドパーを土産に買って帰ったことを今でも口にするくらい律儀に慕ってくれていて、親父が日本に帰ってからも親身に面倒を見てくれている。

アキラさんの運転で伯母の家に着くと、先にピックアップしてもらった親父がコタツに入って新聞を読んでいた。

「おう」(そっけなく)

「どんなんな」

「うん、ええで」(何が?)

「メシはしっかり食うとんな」

「おう、でもワシにはちょっと多いわい」

2ヶ月ぶりの父親は以前にも増して顔色が良くなり、一時は食べずに飲みっ放しの生活で体重を10キロ近く落としたけど、すっかり元に戻っていた。いや、近年では一番健康そうだ。まずはひと安心。

かつては、

[だらだら晩酌を飲んで食べない>内蔵が休まらない、眠りが浅い>食欲がない、不健康な心身で酒に逃げる>(始めにもどる)]

というネガティブスパイラルの典型だった。

それが施設に入ってうれしい誤算だったのが、

[施設の食事の時には誰も酒を口にしない>自分だけ飲むのは「カッコ悪い」(本人談)>ガマンして食堂では飲まない(お腹がふくれる)>酒が入る余地が少ない>あきらめて寝る>眠りも深くなって目覚めもいい>健康な心身>少しは世の中の役に立ちたい(ウソ)]

というポジティブスパイラルに見事に転じた。

それと、毎日7、8キロアップダウンのある山道を、時間にして2時間くらい散歩するので足腰まで強くなってきた。

けっこうタヌキで、その場しのぎのウソをペロッと言う親父だけど、顔色や姿勢、体格を見る限り健康に向かっているのは間違いなさそうだ。

「よし、イッパイやろうや」

待ちかねたように父親は焼酎の湯割りを飲み始めた。

テーブルいっぱいに伯母が用意してくれたごちそう。すべて地の魚や庭で取れた野菜でこしらえている。

ボクも飲みたいけど、昼から親戚の市会議員さんが萩の活性化のことで相談に来るそうだからビールを一本だけ。

親父は散歩のコースで、カワセミや鴨の巣を発見したこと、それは自分以外にどうやら誰も知らないこと、取って喰ったらさぞ美味いだろうがそっとしている(善人ぶり?)というような近況を力強く語った。それから、アキラさんと子どもの頃、野鳥や魚をどうやって獲ったか、思い出話に突入していった。

また、施設の温泉には年長者で威張ったジイさんがいて、腹が立つから近所の源泉掛け流しの温泉に行っているという相変わらず大人げない話をした。

ボクは家族やメンバーの様子を話そうと思っていたけど、父親のまぶたがとろんとしたが早いかコタツでそのまま寝入ってしまった。あらあら。

そのうちに議員さんが来てくれて、萩の現状や観光客の誘致、PRの仕方を話している間もとなりでずっとイビキをかいていた。

議員さんが帰って、親父が起きるのを待って温泉に出掛けた。

山の方に20分も走ったら親父の好きな温泉がある。久しぶりに背中を流したらご機嫌そうな顔で目を閉じた。

帰り道、連日の散歩ですっかり磨り減ってしまった親父の靴を買い替えにスポーツ用品店に寄った。

ウォーキングのセクションで、一番機能性の高そうな靴を店員さんに選んでもらった。

履いてみると、親父の足は異常に幅が広く、エベレストのように甲が高いことを発見。

ボクが小さい頃から先生や仲間にからかわれたこの足は、母親だけでなく父親からも譲り受けていたのだ。

幅広甲高足のサラブレッド。ザ・ニッポンの足、だ。とほほ。

ようやくフィットする靴を見つけて、店内を歩いてみると「うん、ええの」と親父。

「足、引き摺らんと、膝をあげて、姿勢よく歩くんで!」

こくりと頷く親父。古い靴は捨ててもらって、そのまま履いて帰った。

 

夕食は5人しかいないのに、20人前くらい板前のアキラさんが捌いたフグの刺身に鍋。ポン酢は庭の柑橘類からの自家製のもの。さらにバージョンアップしたごちそうに舌鼓を打った。

 

萩は白壁の美しい城下町で、恵まれ過ぎなくらい海の幸山の幸に恵まれている。地の魚、イノシシの肉、季節の山菜、名物の蒲鉾や若布。温泉が豊富で、海がキレイで、人が素朴で親切な街だ。それなのに一戸建ての家が中古なら500万円くらいから手に入る。

日本国内で沖縄や離島に移住する人が多いと聞くけど、日本国内でそういう暮らしを望むなら萩は絶対のおススメだ。とくにリタイヤして静かに豊かに暮らすにはもってこいだろう。

 

宴が始まって1時間あまりで親父の目がとろんとなってきた。まだ午後7時だ。

「すまんが、送ってもろうてええかの。わしゃ帰って寝るわい」(親父)

「(一同)え〜っ!!

「ヨウイチさんがせっかく来てくれたのに!」(アキラさんの嫁)

「ヒロちゃん、あんた何考えとるの!?」(伯母)

「叔父さん、布団も用意しとるし、洋ちゃんが来てくれとるんやから」(アキラさん)

「父ちゃん、みんなも楽しく食べとる最中やし、勝手言わんの。明日の朝帰るから見送ってよ」(ボク)

「ええわい。また今度ゆっくり来い。なあ、アキラ、奥さんに運転頼んでくれんか」(親父)

この社会性、この人柄。親父はそこにいるアキラさんの嫁に直接頼まず、アキラさんを介して頼んだ。

 

その瞬間、親父がアメリカに暮らしていた頃、友人宅やボクの家でパーティをする時には必ずカミサンが親父をピックアップしていたのを思い出した。

そして、どんなに盛り上がっていても、どんなに早い時間でも、「おい、そろそろ帰らんか」「いつまでやっとる気じゃい」と怒気炸裂で無理矢理に帰った。

「もう、二度と親父は呼ばん!」「まぁまぁそう言わないの。お父さんもサミシイんだから」とカミサンと毎回話してたのを思い出した。そうだ。期待したオレがバカだったのだ。

「洋ちゃん、ごめんな。叔父さんは言い出したら聞かんけえ」アキラさんがすまなさそうに言った。

「じゃあの」と赤い顔で玄関に歩き出す親父。

「身体に気ぃつけまいの」

ボクの声に返事もせずに親父はすたすたと行ってしまった。

02 01, 2010