親父

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「今朝、無事に納骨が終わって、明日ロサンゼルスに帰国します。父親の最後の時間をこれ以上ないくらいに面倒を見ていただきました。本当にありがとうございました」

7月7日、担当医のT先生と看護婦さんたちに見送られて、山口県湯田の日赤病院のホスピス を弟と後にした。

父親の危篤の報に緊急帰国したのが1ヶ月前。

一時は昏睡状態から立ち直り、表情で意思表示ができるまで回復できたけど、すでに食事を口にする力も残されておらず、1枚ずつ葉っぱが舞い落ちるように階段を降りていった。

「一生末っ子だったね」

葬式に駆けつけた家内が懐かしむように言った。
6人兄弟の末っ子で、小さい頃から甘やかされて育った父親は何でもかんでも人任せ。機嫌が悪くなるとすぐ顔に出るし、面倒なことにはそっぽを向く。人の話に深く耳を傾けて共感するというような性質は持たなかった。それでいて、すぐに手を挙げるから扱いに困った。

今から25年前、僕の結婚式の前の晩のことだ。日本からの来客を連れていった飲食店で、メシが遅いと突然頭を後ろからはたかれた。ふつう成人になって叩くかよ。。叩かれた痛みより、まわりの仰天する顔の方が僕には痛かった。

これは小学生の頃の話。

初めての夜釣りに誘ってもらって自転車で後に続いた。夜の釣りは大人の釣り。少しおにいちゃんになったような気分で僕は誇らしかった。

緊張の一投。おっかなびっくり投げた糸は宙でもつれた。

「ボケこな(馬鹿野郎)、帰れっ」

と怒鳴られた。暗い夜道を僕はひとりで帰った。それから数時間後、屋台で買ってきたおでんを食わんかと僕にすすめた。

同じく小学3年生の時、父親の務める船会社が傾いて希望退職を募った。親父は一番に手を挙げた。僕もそうだけど、込山の血はヘンなところで潔い。粘りがないというか執着がない。
おかげで家族は路頭に迷ってしまい、家の中の空気が少しずつギクシャクしていった。

短気は損気というけど、その言葉を3Dにした感じの親父は、それからヤメ癖がついてしまい、船会社とケンカしては次々と会社を辞めた。僕は大の大人が昼間からゴロゴロしていることや、保険証がその度に変わって、みんなの前で担任にそのことを触れられるのがイヤで仕方がなかった。

それでも人生はうまくしたもので、そんな家庭環境のおかげで、僕は中学卒業と同時に県外の全寮生の商船高専にすすんで軍隊さながらの環境で鍛えてもらった。そして、そのおかげでアメリカに実習まで行かせてもらい、それがきっかけで卒業と同時にアメリカに渡った。

さて。あまり親父を貶すとバチが当たるから少しだけ褒めておこう。

後に同僚や親族の話を聞くと、ああ見えて面倒見はよかったようだ。勘定は必ずおごり、勘定書きがテーブルに残っていることを嫌った。若い頃、外国航路に乗っていたのと関係しているかわからないけど、タクシーや飲食店で良いサービスには昔からチップを払っていた。母親が小遣いで兵糧攻めにして支配を強いるのに対して、親父はその点気前がよかった。

痛みにも強い父親だった。小学校の頃、子供会のソフトボールの練習で、よそのお父さんが不注意で振ったバットが父親の額にヒットして流血した。それなのに、「こんなもん大丈夫」と平気を装い、流血に堪えながら家に帰った。母親はそれを「外面(そとづら)がいいだけよ」と言ってたけど、子どもの僕でもそれはちがうとわかった。

思えば、痛みと悪口と恩きせがましいことは口にせず、卑怯なことを嫌う人だった。

時は流れて、弟の結婚を見届けた両親が離婚して、しばらくして父親は癌で胃を半分以上切った。それをキッカケに僕は父親をアメリカに呼び寄せ、70歳までの10数年間をアメリカで暮らした。それまでも毎年アメリカに招待していたから自然な流れだったと思う。

アメリカでは毎日昼まで僕の会社を手伝い、請求書を振り分けたり、郵送の手伝いをした。何もない日は、日経新聞をすみからすみまで読んで、弁当を食べて帰った。会社では、メンバーがそれは親父を大事にしてくれた。みんなにお父さんと呼んでもらって、社員旅行でもパーティでもみんなに輪の中にいた。

父親には個室を用意していたのだけど、「お父さんの部屋は朝から酒臭い」とか「お父さんの部屋でライターを点けるとアルコールで爆発する」とからかわれて、父親は笑っていたけど、僕は耳がヤケドしそうだった。

アメリカでは麻雀仲間も見つけ、ゴルフも覚えた。恩師の阿木先生や仲間と行く時にも連れていった。親父はパターがとくにヘタクソで、穴を狙っているのにどんどん遠くになるほど強く打つ。それでもみんなイヤな顔も見せずに待ってくれた。

乗り合いの釣り船では常連で、英語がしゃべれないのに一人で出掛けていった。大きな獲物が釣れると、友人家族に刺身を振るまい、孫たちはアラでこしらえたスープを喜んで飲んだ。

「どこでも行きたいとこ、言うてん」

僕の問いに、親父はイグアスの滝が見てみたいと盃を置きながら言った。
よっしゃ、一生の思い出を贈ろうと、まだ家内の両親も元気だった頃に、まとめて3人南米に連れていった。イグアスの国立公園内に部屋をとり、船から滝を見上げ、バスで行って滝に沿って歩き、ヘリコプターで滝を空から見下ろした。ついでにアルゼンチンではカジノに攻め入って財布をいっぱいに膨らませて帰った。あの頃は、3人ともギリギリ体力が残っていたから「エイヤ」で連れていって本当に良かった。地球で一番大切なのは、その人とのその時の時間だ。

父危篤の報せを受けて帰国したのは6月6日。今年に入って4回目だった。
毎日朝7時には弟が先に病院に行って、僕はネットを使う仕事や勉強が一段落してからバスで通った。

段々と視力を失い意識が遠ざかる親父に、弟は「ありがとうな、ありがとうな、もうがんばらんでええけんの」とやさしく腕や頭をさすった。僕は両手で冷たい掌を包んで、親父の痛みが少しでもやわらぐように祈った。

まだ意識が少し残っている頃、弟が親父の好きな焼酎を買ってきた。持ち上げてみせると、かすかに頷いた。うすいうすい水割りにして口元に運ぶと、一瞬目がクワッと見開いた。僕は親殺しになったかとあせったけど、その後少しやわらかい表情になった。それが親父の人生最後の酒だった。

7月3日金曜日の朝5時過ぎ、別の宿に泊まる弟から電話が入った。親父の血圧が60まで下がったと。飛び起きて僕は病院に走った。

体重が全盛期の半分ほどに痩せてしまった父親が荒い息で待っていた。すでにその時が迫っていることがわかった。

弟が家族に連絡するために部屋を離れた時、目を開いたまま意識がないはずの親父の掌をさすった。ありがとうな、ずっとありがとうな、全部ありがとうな、親父に礼を言った。

すると、焦点の定まらない親父の瞳からぽろりと大粒の涙がこぼれた。流れ星みたいだった。

弟が戻ってきて、ロサンゼルスの嫁や娘とスピーカーフォンでつないだ。僕はカミさん、娘、オレゴンの息子とつないだ。みんなが順番に叫ぶような声で何度もありがとうを伝えた。

その時もう一回、ぽろっと大粒の涙が頬をつたった。親父にキチンと届いていたんだ。

それからは荒かった息がだんだんと弱くなり、間隔が空き、小さくなっていった。

そして午前11時50分、親父は静かに息を引き取った。

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「パパ、おじいちゃんは幸せな人生だったと思うよ。みんなに愛されて、みんなに大事にしてもらって。パパもご苦労さまだったね」

葬儀の夜、並んで身体を洗っていた息子がふいにそう言って立ち上がり、僕と弟の背中を流してくれた。僕らに背中を流してもらう時の親父のうれしそうな顔が思い出された。