義父に伝えておきたかったこと

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話が前後するけど、この週末はよくキッチンに立った。

土曜日は冷蔵庫や食料庫の残り物を使ってパスタのソースをこしらえたし、日曜日は本誌に長年執筆いただいている阿木先生ご夫妻をお招きして、八宝菜やシーフードたっぷりのシチューを作って食べていただいた。家内や娘も細々(こまごま)と作るのでテーブルは組み合わせはともかく賑やかになって楽しい。

さて、前々回に続いて、今回も日本での話を。

その2、家内の実家四日市に行った話

出張中の週末、一泊だけ四日市にある家内の実家に立ち寄った。
家内の実家は茶畑の中にぽつんとあって、近所に弟や妹の家族が住んでいる。

70歳代半ばになる義父はこの数年で兄弟が立て続けに先立ってしまい、そのうえ長年続けてきた事業や多くのボランティアから一時に解放されたものだから最近ちょっと元気がない。

「あなた、ちょっとうちの実家に寄ってお父さん元気づけてくれる。お父さん、あなたが行くと元気になるから」

家内も近頃少し元気のない父親を心配している。去年は家内がひとりで実家に帰って、業者さんを呼んでスカイプをセットアップしてもらったりしたがイマイチ機能していない。

そんなことでその日曜日の朝。

八重洲ブックストアに寄って、コンサルタントの阪本さんに薦めてもらったパタゴニアの創業者イヴォン・シュイナードの「社員をサーフィンに行かせよう」(東洋経済)を購入。いっしょに、稲盛和夫さんの「生き方」(サンマーク出版)、本田宗一郎さんの「やりたいことをやれ」(PHP)を購入。ともに尊敬する大好きな経営者だ。

イヴォン・シュイナードの本をパラパラやりながら正午過ぎの東海道新幹線に乗って名古屋で乗り継ぎ、近鉄四日市駅に着いたのは午後3時頃だった。

いつものように両親が迎えにきていて、そのまま3人で長島温泉に向かう。

父には一番最初の接点で申し訳ないことをしている。

ボクは創業してしばらくで結婚したのだけど、当時は起業家とは名ばかりのプー助で、オマケに後でバレるのがイヤなものだから、うちの両親が離婚しそうなことや家庭環境がムチャクチャなこと、ボクのまわりのネガティブな要素をすべて正直に伝えた。

大切な関係だから誠実でありたかったのだけれど、どうも限度を超えたようで父親は心配してぶっ倒れてしまった。いや、一本調子の直球しか投げられなかった自分が今でも悔やまれる。

そんなことで、それが父親との最初のスタートだからそれ以上ボクへの評価の下げようがない。

結婚も認めたというより諦めたという感じだったろう。いや、別に期待値調整をするつもりではなかったのだけど。

父親はアパートで会社をやっていた時代も、安い倉庫を事務所にしていた時代も、自社ビルに移転してからも、はたまたその間にいっぱい失敗をしてきたこともみんな知っている。

父親もずっと事業をやってきたから話も合うし何でも話す。

というか、ボクは家内の父親が好きなんだと思う。

だから家内に言われなくても、居心地が良いもんだから、出張の合間にわずかな時間を見つけて泊まるだけでも訪ねて行った。

温泉ではあまりしゃべらなかったけど、帰宅して乾杯したあたりから会話が弾んだ。父はコップ一杯で真っ赤になる下戸だけどそんなことは気にしない。ボクはマイペースで飲むし、父は果物を食べたりお茶をすすってボクの話を聞いている。

いつ何があってもおかしくない歳だから、今回こそ両親に伝えておこうと思っていることがあった。かといって、改まって伝えるのも恥ずかしいし、くすぐったいだろうから会話の流れを見ながらタイミングを待った。

「そうそう、お父さんお母さん、もう来年でライトハウスも20年目ですよ。早いですね。結婚の時はビックリさせたり心配ばっかりさせてしまったけど何とか会社も成長しています。

ホントにたくさんの人たちのおかげで何とかやってこれたけど、ひろみくんのおかげもおっきいです。彼女がよく支えてくれています。結婚させてくれてありがとうございます。

ボクの会社が本当に大成長するんはこれから10年、20年やから、二人とも頑張って健康に長生きしてくれなイカンですよ。頼みますよ!」

何とかうまく言えた。ビールに援護射撃を頼んだけど。

さんざん心配をかけたから、両親には感謝の気持ちを伝えたかった。

父の目のフチがちょっぴり赤くなってぎこちなくビールを注いでくれた。