グランドキャニオン谷下り(後編)

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5時半に自然に目覚める。

そのまま着替えて、装備を再確認する。朝食は前日買っておいたサンドウィッチとコーヒー、インスタントみそ汁。

カーテンの隙間からのぞく闇が少しずつ青みを帯びて明るくなる。

「日頃の行いだよ!雲がない。今日は晴れそうだよ」

同室の薬師寺さんが振り返って笑った。ラッキー。

午前6時過ぎにゲートを通過。国立公園内に入る。
ブライトエンゼルロッジの前に駐車して各自柔軟体操をする。

6時40分出発。トレイルを一歩一歩踏みしめて歩く。

いきなり段差のある下り道は膝に来る。少し曲げ気味に衝撃を緩和するように歩く。

7時20分、入り口から1.5マイルの地点に911の非常時の電話とトイレがある。
使用した高津さんによるとトイレは清潔。飲料水はない。

8時5分に2つ目のトイレを通過。ここにも911アリ。

8時50分、出発から4.5マイルのところにあるインディアンガーデンに到着。目的地のコロラド川まで残り3マイルだからこの地点で往路の60%をクリア。

ここまでは出発地点から眺めることができる。ビューポイントから眺める景色を下から見上げる。不思議なもので、同じように見える風景も、高度や角度の変化とともにダイナミックに変化する。

「これは自分の足で歩いたからこそ見ることができる風景だ」と薬師寺さんが興奮気味に声を上げた。

上から眺める景色も素晴らしいけど、やはり額に汗してこそ得られる絶景の連続に一同大感激(と言いつつ不公平のないようお手軽なロバのツアーhttp://www.grandcanyonlodges.com/Mule-Trips-716.htmlもあります)

さて、このインディアンガーデン(標高1,146メートル)にはキャンプ場があり、トイレや水道(911の電話も)を備える。ただし、何があるかわからないから、水はあくまで自前で準備することを勧める。

途中、水筒を持たない小さな子ども連れの親子を見かけた。泣き止まない赤ん坊を背負った夫婦もいた。決して舐めてかかってはいけない。

ちなみにここまでをゴール(目的地)にするハイカーやバックパッカーが多い。ここまでなら往復で6マイル。体調を整え、水や装備をしっかりしてのぞめばハードルは決して高くない。実際、還暦を過ぎた感じのシニアもけっこう見かけた。

我が隊はそこから4.5マイル先のコロラド川を目指して、ズンズンと歩みを進める。

薬師寺さんの表情が少し険しくなってきた。この数ヶ月、平地で荷物を背負って長い距離を歩くトレーニングは重ねたけど、坂を下るときの膝へのダメージは想像をはるかに超えていたようだ。休憩の頻度が増える。玄の口数も少ない。

10時50分、今度は玄が足を挫く。左足を引きずって苦しそうに歩く。

「また来よう。これ以上無理するな。パパと引き返そう」

「ボク頑張りたい。川まで行きたい」

川はもうすぐのところまで来ているはずだが決して無謀な前進をしてはならない。前進か撤退かどうするべきか。高津さんがしゃがんで玄の足を看る。痛むところをていねいに指で確かめ、その辺りの靴ヒモを強めにしめる。

「川はそう遠くないはずだからちょっと確かめてくる」

そう言って高津さんは谷を走って降りた。

数分後、再び高津さんが上気した顔でもどってきた。

「すぐそこだよ。もうひと頑張り!」

耳を澄ましたら確かに水が流れる音が聴こえる。近い!

そこからカーブを2回曲がったところで突然コロラド川が現れた。

垂直の岩壁の間を、幅にして20メートルのその川が、まるで命を宿しているように、力強く、そしてキラキラと輝きながらロッキー山脈の雪解け水を運んで流れていく。

ここはグランドキャニオンの谷底。

人工物は視界の中に一切ない。自分たちはすべて自然が拵(こしら)えた風景の中にいる。ボクたちはなんて贅沢な空間にいるんだろう。

水は凍りそうに冷たい。

両手ですくって顔を洗うとクラクラ意識が遠くなる。
裸足になって足をつけると疲れも痛みも流れ出してゆく。

さっきまで痛みで顔を歪めていた玄も、うれしそうに水遊びをしたり、みんなのペットボトルを川の流れに浸けて冷やしている。

お腹が空いているのに気づいてドーナツを頬張る。

正午。すっかり元気を取り戻して、今度はすべて登りの帰り道。

幸い玄の足の具合は良くなり、むしろ下りより元気に、坂道をショートカットして急な坂を這って登ったり、思いついては走ってみせた。

インディアンガーデンまで2時間の好ペース。水を補給して最後の4.5マイルにのぞむ。

膝の痛みで薬師寺さんのペースが落ちる。

プレッシャーがかからないよう、少し時差をつけて先を歩いてもらったり、休憩の頻度を増やして、ゆっくり、しかし確実に前進した。不思議な連帯感に包まれる。

途中、観光客を乗せたロバの連隊が何度すれ違う。大きな角(ツノ)の山羊が岩の上からこちらを眺めていたりもする。

時々額の汗を拭いながら振り返ると、出発したときの風景に近づいてゆく。

どうやら、高津さんと覚悟していた、薬師寺さんと玄のふたりをおぶって登る心配は消えつつある。

午後6時10分。
最後のカーブを曲がったら、不意に出発地点の建物が視界に飛び込んだ。

やった、帰ってこられた。無事に帰ってくることができた。

突然、高津さんと玄は最後の100メートルを駆け上がってゴールした。そんなエネルギーが残っていたか。

それから玄は走って戻り、もうそのまま倒れてしまいそうな薬師寺さんの背中を一生懸命に押した。

息子ながら良いヤ

ツだなあとうれしくなった。

薬師寺さんが照れくさそうに、ちょっぴり目の縁を赤くして、玄とふたりでゴールした。手が痛くなるくらい拍手した。ちょっとだけ映画のシーンみたいだった。

50歳男と少年の大自然デビュー戦はひとまず成功に終わった。

国立公園のオフィシャルサイト