窓にオデコをあてて

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前の章では一人前に、飛行機や空港の善し悪しを書いてしまったけど、飛行機に初めて乗ったのは1986年8月、20歳の時だった。当時、運輸省航海訓練所の実習生として、一年間の航海実習を終え、羽田から実家のある高松へ飛ぶ国内線が最初であった。

飛行機の窓にオデコをピッタリあてて考えた。
土方のバイトを一日やって5000円。片道20000万円を超えるなんて、何て贅沢なことだろう。初めて空に浮かぶのに、景色よりカネが気になった。

それまでは国内はもちろん、ハワイに行ったのも、ロングビーチに入ったのも、タヒチに寄ったのも、遠いところはみんな船だった。

その次に乗ったのは、それからわずか一ヶ月あまり後の10月1日。

アメリカに行くために、再び東京へ飛ぶ飛行機だった。

5年半の商船学校時代をともにした中条、中村、池田、植松らが、小雨の高松空港に見送りに来てくれた。別れ際、いつもバカ話しかしないのに、神妙に励まされたり、心配してくれたもんだから、鼻の奥が熱くなって、そのままムズカシイ顔でその場を後にした。小さい空港なので、屋上で手を振ってくれているのが見える。ヤツらはボクが見えている訳ではないのに、およその見当をつけてずっと手を振ってくれている。飛行機の窓にオデコをあてて声を殺して泣いた。

成田には、大阪や名古屋から、西川さん(先輩)と浅倉が駆けつけてくれた。プレゼントのラグビーボールに記された仲間からの寄せ書きにまたまた泣かされた。

あれから20年。みんな何も持たずに社会に放り出されて、気がついたら、背中に背負うものや守るものがうんと増えた。世代の真ん中で責任ばかり重くなる。きっと自分のことで頭を下げることなんてそうないだろう。これから20年はさらに責任が重くなる。世の中の大黒柱になる時代だ。

今になってわかる。

20年前の自分はアメリカに渡ることで頭がいっぱいだったけど、社会に出るのはみんな同じで、それぞれが自分の未来に対して不安だったはずだ。

だけどボクは自分のことばっかりで、ちっとも仲間を思いやったり、応援する気持ちも持てなかった。あまりにも未熟だった。

ひとりで生きてくような顔をしてたけど、実はみんなの思いやりの中で生きてこれたのだ。

少しは進歩したのだろうか。

今も、いや、学生時代以上に、彼らとは絆が強い。

数年に一回しか会えないけど、ずっと隣にいたみたいに自然と話せる。

悩みや失敗を隠さないし、見栄を張る必要もない。

もしも、

バッサリ禿げても、お腹が天を突いても、リストラにあっても、大失敗して大借金してそいつが世の中に見放されても何にも変わらない。オレたちは仲間だ。

窓にオデコをあてる。

いつの間にか雪をかぶった森の上を飛んでいる。ボストンは近い。