息子と父

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息子のリトルリーグが開幕をひかえ、自転車の朝練はしばらくお休み。毎朝、家の向かいにある芝生の公園で、11歳の息子にノックをしている。

早朝のまっさらでヒンヤリした空気を吸い込み、身体を動かすのは心底気持ちいい。バスケット2カゴか3カゴ分のボールが空になる頃、東の森から太陽の光がこぼれる。

バットを振りながらこうして親子で野球ができるのは、人生の中であと何回くらいあるんだろうと考える。12月で40歳になって「人生であと何回」をよく考える。

いつかあの世に旅立つときに人生を振り返って、朝部門、昼部門、夜部門で人生のハイライトを選考したらば、この息子との朝のひとときはまちがいなく朝部門の上位に食い込んでくるだろう。このシーズン、この瞬間を大切にしたいと思う。


私の父親は、リタイア後アメリカに呼び寄せ、弟と私の家のまん中にアパートを借りてひとりで住んでいる。月曜日から木曜日、昼過ぎまで私の会社で、書類関係の整理や郵送の手伝いをしてくれている。毎週金曜日はアメリカ人に混じって、乗り合いの釣り船で沖に出る。最近の課題は、強すぎて麻雀のお呼びがかからなくなったこと。もうそういうリズムが3年になるだろうか。

66歳の父は、現役時代船乗りを40年もしていて、その後半は、小さな貨物船だけどずっと船長をしていて、今では熟年離婚で分裂したが、家族の誇りでもあった。

60歳を過ぎても船乗りを続け、長期の休みの時は、知人の雀荘でよくアルバイトの店長をしていた。ずいぶんとそれが気に入っていて、よそで仕事を聞かれると、雀荘のマネージャーだと答える父だった。

昔から父はあまり行儀が良くなくて、たまに帰ってくるとよく怒ったり、叱られた。

多感な少年にとっては、訪問販売員をステテコのまま怒鳴るところもイヤだったし、真っ黒なサングラスにチョイワルな格好で運動会に来てくれるのも辛かった。

魚屋の横付自転車を乗り回して捨てたのがバレた時には兄弟コテンパンに殴られた。弟の血まみれの顔と血糊のついたドアノブは今でも夢に出てくる。

そんな父がキャッチボールを誘ってくれたことがある。黙って歩く父親について海岸まで行き、ただ黙々とキャッチボールをした。時々、両手で取れと怒鳴られるが、あとはボールをキャッチする音だけが響いた。

あの時の父も、あと何回キャッチボールができるか考えたのだろうか。

キャッチボールをしてくれた父親、家出した息子を真夜中に外で待つ父親、癇癪を起こした後おでんを買ってきてくれた父親…。

不器用だけどずっと守ってきてくれたんだなあと、父親になった今少しだけわかる。

【込山洋一】