シンドラーズ・リスト

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穏やかな土曜日の午後。
書斎でひとり、スピルバーグの「シンドラーズ・リスト」を観た。

ボクはいつも感情移入し過ぎてしまう。

それを引いても。
ほんの少し、生まれた時代や国がちがっていたら、映像の中で迫害され、虫けら同然に殺されていったユダヤ人の中に自分はいたかもしれない。もっとおぞましいのは目を覆うような残忍な殺戮に無神経なドイツ人の中にいたかも知れない。と、思う。

考えてみたら、同じ時代にボクらの同胞の日系人だって、家土地財産すべてを奪われて強制収容所に追われて辛酸を舐めたのだ。

今、ボクらは安全の中で暮らし、財産が守られ、家族や仲間と笑顔で生活できること。

水道を捻ったら水もお湯も出て、明日の米(パン)に困らない生活。

ボクらは当たり前ではないことに慣れ過ぎてしまっている。

実は実は、それは錯覚であって、今同じ地球で銃に怯える生活、餓死で命を落としていく子どもが存在するのだ。

空襲や爆撃や悲鳴が聞こえない生活を当たり前に感じているけど。

「自分だけ」「自分の身内だけ」「自分のコミュニティだけ」「同胞だけ」

映画を見て、改めてそれじゃイカンと思った。

何をしたら良いか、何ができるかもわからないけど、どうもそれではイカンと思った。

すべて人の心の中に、
莫大な財産をすべて投じて1200人を越えるユダヤ人を救ったシンドラーが必ず存在する。

すべてに人の心の中に、
鬼も、詐欺も、怠け者も、自分を犠牲にしても人を救える良心も、すべて内在するのが人間だと思う。惨くて儚い。優しくて強い。

ラストシーンで、片腕のユダヤ人イザック・シュターンが、オスカー・シンドラーに、ユダヤの格言「ひとつの命を救う者が世界を救える」と語りかけたのは、きっとスクリーンのこちら側にいる、世界中の人たち(ボクたち)だったのだとしばらく経ってわかった。