理性と情

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 土曜日の朝。書斎から眺める外庭の木立が春の風に揺れている。

今朝は雑巾で念入りに便所掃除をした。

ゲストルーム、リビング、ベッドルーム、ふだん世話になっている便器を自分の手で磨いてやると、不思議なもので心までスッキリ掃除できたような気分になる。

だから、会社でもアタマの整理がつかないときやモヤモヤした時は、密かに便所掃除をしている。

これは本誌コラムを執筆いただいている阪本さんに教えてもらってから実行している。

さて。朝から便所をゴシゴシしてみたのも、ここしばらく、経営において自分のとった言動があまりに冷徹ではなかろうかと思うところがあるから。

自分では信念を持って行動しているつもりなのだけど正論過ぎやしないか。

「大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり」

相手や組織全体のことを思いやる大きな愛、本当の愛は、一見すると非情にも見える。一方、自分可愛さの、良く思われたい小手先の行動は、実は相手(あるいは組織全体)を甘やかせて、その成長を妨げたり、大切な決断を先送りにして、結局はみんなを不幸に招くことになる。

そういつも思っている。だけど、理性と情けの間で揺らいでしまう自分がいる。自分のことを棚にあげていないか、自己嫌悪になる自分がいる。

そんな思いから、手元に置いて行動の指針にしている稲盛和夫さんの「哲学」(PHP)を開き、最初のページから自分が線を引いたところを読み返す。

西郷(隆盛)は義と情にあふれた、私にとって心の軸となる人です。しかし、私は情をほだすような話を持ってくる人間を受けつけません。そういう意味では冷たいのかも知れませんが、それは京セラを創業して間もないころ、「西郷のような情が私の中心にはあるけれども、事業をやるには大久保利通の理性と冷徹さがいる」ということに気づいたからです。
(中略)
理想とする「全(まった)き人」とは情で動く西郷的なものと、理性で動く大久保的なものの両方が結びついて成り立つことがわかりました。
(中略)
「大久保利通と西郷隆盛が融合調和する形で、稲盛和夫はありたい」と思い、今日までやってきたつもりです。
事業を展開していくときに、情で判断し、情で行動したら、収拾がつかなくなります。また、情で判断して、理性で行動しても道を誤ります。かといって、理性で判断して、理性で対応したら、誰もついてきません。
大事なことは、最初の段階では理性で考え、実際の対応においては情をつけることだと思います。

この一節を読んで、モヤモヤが晴れる思いがした。

そして、自分の取った行動や考えていることが、決してそんなに外れていないものだと思うことができた。

こんな小さな会社だけど、打ち込むほどに経営は難しいと感じる。
もっともっと学び、自分を磨かねばならないと痛感する毎日だ。

それは、幹部のメンバーも同じことで、実は、来週からライトハウス、LCEの幹部、および希望者(ちなみに、瀬尾くん、ハンくん、西村くん、滝井くんが手を挙げた)を対象に、毎週月曜日8時半から30分、「経営塾」を開講する。いっしょになって必死で勉強したい。