イチゴのケーキ

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 午後、母親(カミサン)にクリスマスギフトを買いたいという娘に引かれ近所のモールへドライブ。

娘がお茶の専門店で熱心にハーブや小物を物色している間、ボクは所在なくポケットに手を突っ込んであたりの店をのぞいて回る。

不況といわれるけど、クリスマスを前に、モールの駐車場は車を停めるのにみな苦労している。こういう光景に触れるとうれしくなる。

ギフトが決まり、ペットショップで主(あるじ)を引っ掻いた猫のエサを選んで、明日のホームパーティで娘が用意するスィーツの材料を買いに行く。

クリスマスといえば子どもの頃、母親が骨のところを銀紙でくるんだ鶏のモモが我が家では一番のごちそうだった。

たまに母親が仕事先からケーキをもらって帰ってきて、「これは生クリームやけんの。ふつうのとちゃあうんで。大事に食べまいよ」ともったいをつけたのも懐かしい。そう、我が家には「値打ち」をつけたがる血が脈々と流れているのだ。

ふだんは親父が船乗りでいなかったから、たいていクリスマスは家族3人だった。

小学校の真ん中くらいまでか、まだ両親が本当の夫婦であった頃には、クリスマスを祝いつつ、神棚と親父の席にできたてのご飯をよそってから「いただきます」と手を合わせた。

サンタもこの頃までは来てくれた。プレゼントが、リンカーンやキュリー夫人の伝記だったのがシビれたけど。

もっとボクらが小さくて、母親がまだ働いていなかった頃は、「あんたらご飯食べれるんはお父ちゃんのおかげなんで」と、手を合わせた後に母親がよく言っていた。

今更だけど、1974年、順調に船乗りとして出世していた親父がリストラになってから歯車が狂い始めた。

母親は家計を助けるために保険の営業職に就いたところが日本で何千人のトップ10の常連になるほどに頭角を現し、一方親父は辞め癖がついて転職を繰り返し、さらに母親が交際や金回りが派手になる中で夫婦の信頼関係は置き去りになり、ボクはといえば家に居着かなくなって、弟は約束通り悪に染まり、猫はこたつで丸くなり、いつの間にか家族が崩壊していった。

面白いのが、自分が親になってその歳になり、親のことを悪く思っていたような感情がどこかへ霧散して、わずかながらもそれぞれの気持ちが理解できるようになってきた。っていうか純粋に感謝しかない。

当人の親父は時々、再婚した母親が元気でやっているか気遣い、母親もまた遠慮がちに親父の健康を心配している。決して戻れない関係のふたりが、時の助けも得てお互いを許し始めているのかもしれない。

多くの夫婦のことはどちらかが悪いのではなく、ただ人間の弱さから来るものなのかもしれないと思う。

そして、歳を重ねるということは、いろいろなことが見えたり、許したり、受け入れられるようになることなのかもしれない。

クリスマスケーキでひとつ思い出した。

あるクリスマスの日、小学校が冬休みに入ったボクらを連れて、車で一時間以上かかる郊外の街に営業同行した。ボクらはただ車で待っているだけなんだけど。

途中で支社かお客さんかに生クリームのイチゴが載ったケーキをいただいた。

ボクら兄弟はゴクリとツバを飲んだ。

帰り道、母親は「ごめん、5分だけ寝かせて。もう、眠くて死にそう。事故してアンタらも死んだらいかんけんの」と道路の脇に車を停めてとたんに寝息を立てた。起こすと逆上するのがわかっていたし、やがて外はだんだんと闇に包まれる。

その時ボクは苛立っていた。今頃どこの家もごちそうを囲んで楽しくやっているんだろうなと思った。どうしてボクらはいつも親の都合や感情に振り回されているんだろうと情けない気持ちになった。

子どもを守るために身を粉にして働く母親を思いやる気持ちが持てなくて、ただビュンビュンと通り過ぎるヘッドライトをもどかしい思いで眺めていた。

もしも今、タイムマシンで戻れたら、「母ちゃん、しんどいのにいつもありがとうな。ボクらのために。いつもホンマにありがとうな。ナンボでも寝まいよ。ほんで帰ったら熱い風呂入ってビール飲みまいの」そう言って労ってあげるのに。

まだ、天上天下唯我独尊、宇宙の真ん中に君臨する我が儘な母親だけど、イブのモールを娘と並んで歩きながら親孝行する時間が残っていることに感謝した。