食べ物のはなし

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 今日は自分で弁当を詰めた。

里芋の煮っころがし、パスタ、ピクルス、白いご飯。

バランスが悪いのは弁当ではなく、昨晩のおかずの残りだから仕方がない。

箸はもちろんマイ箸で、弁当箱も出入りの弁当屋さんのパッケージの再利用。

地球にやさしくとか、環境問題を考えてとか大袈裟なものではない。

そういうことはもちろん大切なのだけど、食べ物や道具をムダにしないこと、ある中で工夫して暮らすのがただただキモチ良いのだ。

冷蔵庫の食材を使い切る。使えるモノを最後まで使い切る。使わなければ、喜んで使ってくれる人に譲る。使えるものを余分に抱え込まない。

ただ何でも削るのではなく、締めるところは締めて、使うべきところは使う。人生やまわりの人が豊かになることにはあまり出し惜しみしない。

そんなふうにありたい。

食事でいうと、自分が食べる分にはカップ麺でも残り物でもボクはいっこうに気にならない。ただ注意してほしいのは(誰に?)晩酌のビールかシャンパンがよく冷えていることで、それ以外はあまり執着がない。

だけど、会社の連中や若いヤツらにはちょっと贅沢をしても美味いものを食べさせたい。たまに社長とメシを食うのに、カップ麺やファストフードをつき合わされたのではたまらないもんなあ。

ボクがまだ会社を興したばかりの20代前半の頃、今もライトハウスのコラムを執筆いただいている阿木先生によく食事に連れて行っていただいた。

いろいろな店でご馳走していただいたが、ボクは止めなければバケツほども食べるので、寿司屋には一回行ってそれきりだった。

また、イタリアンのサラダバフェでは「店も商売でやっているのだから、そのくらいにしておきなさい」と3回目か4回目をおかわりする頃に嗜(たしな)められた。

あの頃はいつもお腹を空かしていたし、自分の給料が取れないことなんてしょっちゅうだったから、「メシでも行くか」と誘っていただいたら、できないバク転もトリプルアクセルもやっちゃうくらいにうれしかった。

だから時代が変わっても、若い連中の気持ちはわかるような気がするし、バクバク美味そうに食っているのを眺めるだけでシアワセな気持ちになれる。

しかしながら油断をすると、若者は「特上和牛カルビ10人前」とか「土瓶蒸しと大トロ10人前」とか冒険を始めるので、先にスペシャルでお腹をいっぱいにさせたり、ハッピーアワーを狙っていく努力は決して怠らない。

阿木先生のお気持ちが今よくわかる。