原理原則

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昨日に続いて二本目の注射をお尻に射ってもらって帰宅した。
医者との世間話の流れが自然と広告営業に結びつけるのは性か。

三ヶ日も明けて今日あたりから日系の多くの会社は始まっているようだ。
ボク自身は大晦日に紅白を見て、元旦は親父と家族でお節(せち)をいただき、本願寺に初詣をして、百人一首もして、実に伝統的な日本の正月を過ごすことができた。

そんな合間、「ココロの背骨矯正」に稲盛和夫氏の「生き方」(サンマーク出版)を読み直し、改めて今年は哲学を持って、原理原則にそって生きようと誓った。

少し抜粋しよう。


「(創業時)いったい、どうしたらいいのだろう。私は悩みました。そしてその末に行き着いたのは、「原理原則」ということでした。すなわち「人間として何が正しいか」というきわめてシンプルな判断基準をおき、それに従って、正しいことを正しいままに貫いていこうと考えたのです。

嘘をつくな、正直であれ、欲張るな、人に迷惑をかけるな、人には親切にせよ、、、そういう子どものころ親や先生から教わったような人間として守るべき当然のルール、人生を生きるうえで先験的に知っているような、「当たり前」の規範に従って経営も行っていけばいい。

人間として正しいか正しくないか、よいことか悪いことか、やっていいことかいけないことか。そういう人間を律する道徳や倫理を、そのまま経営の判断基準にしよう」


『事業の原理原則』はどこにあるか。会社の利益やメンツにあるのではない。それは社会や人の役に立つことにある。利用者にすぐれた製品やサービス(ライトハウスにとって読者や広告主。LCEにとって学生や経営者)を提供することが企業経営の根幹であり、原理原則であるべきだ」


「自分たちの利益でなく他者の利益を第一義とする―その原理原則を貫いたことが、成功への道をつないだのです」

読み返しては我が身を振り返る。
追いかけても、追いかけても、今、ボクのやっている経営は遠く及ばない。
すぐにブレそうになるし、自問自答の日々だ。

今、そして将来、自分の中で原理原則にそっているか悩むだろうことがある。

例えば、「その男に惚れ込んで」が出発点でも、結果として同じ業界から優秀な人材をヘッドハンティングしている自分がいる。

社内を見渡しても、今まさに頭角を現しつつある期待のメンバーに、引き抜きではないにせよ同業他社からの出身者が少なくない。みな家族のような存在だ。

近年は加速度的に、全米の同業他社から直接間接に、伸び盛りの意識の高い若者がライトハウスでチャレンジしたいと手を挙げてくれる。彼らと、哲学や視界が共有できたらボクは採用する。その中には顔を知った経営者のメンバーもいる。

もちろん、逆に他社(日系米系とも)に引き抜かれたこともあった。引き抜かれたメンバーが動いて、引抜き先の会社と提携するという不思議な体験もした。

経営に携わる限り、この先もそういうことの連続だろう。

自分が引き抜きされる側のときは常に割り切って拍手で送り出してきた。

それでも相手の経営者の心中を思うと、その点についてだけは自分のとった行動が原理原則に果たして則していたのか苦悩する。

自問自答の中でおぼろげに思うのは、きっとその時にその答えがでるものではなく、「(本人が)ライトハウスで、過去とは比較にならないスケールの活躍と成果を収め、前職ではなし得なかったくらい社会や人に役立つこと」「本人や家族、彼らの親御さん、友人知人が心から良かったねと思えるよう物心ともに本人が幸せになること」であり「そうなれるように本人が頑張り、会社が徹底的に育てること」しかない。