大躍進、1,300スクエアの部屋へ

NO IMAGE

当時のオフィスは16901 S. Western Ave. Gardenaだった。
今もウェスタンを走ると、赤煉瓦の二階建てのビルがなつかしい。

オーナーは雲丹(うに)で有名な丸秀の秀さん。面倒見が良くて、右も左もわからぬボクを応援してくれたオトナのひとりだ。

金がないと一階の管理事務所でよくタダ酒とタダ雲丹をご馳走になった。
「腹いっぱい食わせてください」とボディランゲージでモジモジしていると、やさしく「ついておいで」とナイトクラブに直行して、空腹で気絶しそうになることもあった。

「コミヤマくん、となりのスペースが空くんだけど入んない?」

350スクエアから1300スクエアへの大躍進だった。家賃も250ドルから850ドル。もうかなり月面宙返り(ムーンサルト)。

「秀さん、払えなくなったらどうしよう」

「大丈夫だよ。その代わりずっといろよ」

「ありがとうございます!」
(この約束は事業が大きくなって手狭になったため果たせなかった)

850スクエアの新オフィスは、広めの作業スペースに、5つの小部屋があった。

そしてそこで人生初めての社長室というものを得ることができた。

うれしくて、受話器を握ってみたり、難しい顔で紙に何かを書いているところを弟に写真で撮らせた。今ではアルバムをめくる時に恥ずかしくて早送りする塩っぱいページだ。

社長室と言っても、ボクの机に折りたたみの長テーブルを「コ」の字型に組んで、会議室や応接間、ときに教室と変貌自在に活用した。

この部屋で編集会議をしたり、お客さんをもてなしたり、時には期待のメンバーから退職の意思を告げられたり、時に声を絞り出すように解雇を告げることもあった。

人が増える喜びと、会社を守るために鬼になることを最初に学んだ1300スクエアでもあった。

「受話器」で思い出したけど、世の中からずいぶんと遅れて、この頃に初めて携帯電話というものを持った。

今のように胸ポケットに入るようなコンパクトなものではなく、ドラえもんのポケットが裂けるくらいでっかくって重かった。今なら怪しまれて入管で間違いなく停められるだろう。

町でみんなが持っている携帯電話より2まわりくらい大きな電話で、時代の最後尾を走っていたけど、カバンと同じくらい大きなその電話を担いでダウンタウンのビル街を颯爽(さっそう)と歩くのが実は誇らしくもあった。

同時に、日系メディアが26社ある最後尾から始めた情報誌だけど、言葉にできない(根拠のない?)手応えを感じはじめたのもこの頃だった。