引越物語

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いよいよロサンゼルスの新社屋の工事が始まった。

今度のオフィスはトーランスの市役所のすぐ横に開発されたビジネスセンターの中の一棟で、7,700スクエアフィート(220坪)の広さ。1階部分は半分が吹き抜けで5,500スクエア、2階は2,200スクエアある。

まったく箱の状態から、設計とデザインは伊藤デザイン、建築は相浜建設にお願いしている。

伊藤デザインは帝国ホテル大阪など一流ホテルのデザインを手掛けるマーク伊藤氏のデザイン事務所。相浜さんも当地では腕が確かなことで評判だ。

ボクとしてはかなり背伸びをしてお願いしているけど、恥をかかさぬようプロの方達が気持ち良く「夢」をカタチにしてくれている。

今度のオフィスの目玉は2階すべてを使ったエンターテイメントスペース。

ビールが120缶冷やせるカウンターバー、スポーツ観戦や遠隔会議のための60インチモニター、ビリヤード台、マッサージチェア、ソファーセットやダイニングテーブル。50人くらいのパーティなら楽々できそうだ。

ここはアフターに、ライトハウスとLCEのメンバー、ベンダーさんやお客さんが寛(くつろ)いだり、夢を熱く語ったり、クリエイティブについて意見を戦わせたり、情報交換や勉強会をしたり、そんな空間にしたいと思っている。

またスタッフの家族や日本からの親御さんにも遊びにきてもらって、少しだけでも安心して帰ってもらえたらと期待している。

創業時(19年前)のアパートの一室のオフィスは通勤時間がゼロだし、手を伸ばせば冷蔵庫もコピーマシンもホッチキスもゲラ束も届くから便利だった。また洗濯機を回しながらワープロが打てる環境は捨て難かった。

書いていて思い出した。

当時、金もないのに知人から3000ドルでアルファロメオを買った。

やったぜボクもイタリア車のオーナーと思ったのも束の間、2回目か3回目のドライブの時だった。405FWYをガーデナに向けて帰っている時に「ドッカーン」聞いたことのないような爆音が鳴った。

あたりを見回すと、他でもないボクではないか。

ボンネットから前方が見えないくらい白煙が吹き出し、バックミラーにはクモの子を散らすようにまわりの車が逃げている。なんてこったい。

ほどなくカクカクと車が減速し始める。

右の路肩に寄せようと試みたが、右ナナメ後ろからすごい勢いでトレーラーが突っ込んでくる。

「最終回」という文字が浮かんだ。

が、間一髪、トレーラーが通り抜け、ロメオがヨレヨレと停止したところで路肩に侵入。その後ろを猛烈な勢いで車が通り過ぎていく。

よく歳をとって大病した方が「おつりの人生」という言葉を使うけど、24歳にして「おつり大放出」の命拾いだった。

話は引越に戻ろう。

初めて借りた350スクエアのオフィスはラジオ局とシェアだった。
うれしさより、250ドルの家賃が払っていけるかの方が心配だった。

あいかわらず経営は低空飛行で、当時事務のパートをしてくれていた女性の1000ドル足らずの人件費が、家賃捻出と印刷代と毎月の3大支払い目標だった。当時の生活は家庭教師でつなぎ、自分の給料をもらうという発想も入金もなかった。だから経理はいたってシンプル。

そしてその年(90年)に弟が転がり込んできて、バックナンバーの小部屋に暮らしはじめた。最初はラジオ局の人が出社すると、歯を磨く小汚い男がいて魂消(たまげ)たらしい。

懐かしついでに書くと、当時表2ページ(表紙の裏ページ)にカラーのハーフページで掲載してくれているナイトクラブがあった。当時では一番大きな広告主で、その店の広告料が事務の女性の給料とほぼいっしょだった。

運良くオーナーに気に入られて、夜の10時や11時に電話がかかってくる。

「おい、コミヤマなにしとる。ちょっとこいや」

ちょっとこいやでコスタメサ。

閉店2時までよくカラオケの司会をさせられた。

「なにやってんだろう」とやや沈んでしまう帰り道。それでも「これで給料、これで給料」と呪文のようにつぶやいてハンドルを握った。

ピンポイントではしびれたけど、おかげで歌も司会も多少上手になった。短気で無茶もいう大将だったけどよく鍛えてくれたし、かわいがってくれた。おかげでスタッフの給料も払えたし。

過ぎてみると楽しいことばかりだった。