ふつうの火曜日の朝に

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先週までオフィスでは時間帯によってクーラーをかけていたのが、週明けには暖房をかけているではないか。そういうボクも、先週はオフィスでは半袖で仕事をしていたのが、厚手の長袖で出勤している。

昨日、偶然にブログを読んでくれた懐かしい友人から手紙が届いた。ミシガンに赴任しているらしい。

卒業以来だから20年以上会っていない。10代の若者も時を経て40代になっている。

「40代も悪くないな。今までの経験があって実現させるチカラもあるから」

確かにそう思う。

体力、気力、知力のすべてが充実している。

散々と失敗や挫折、失望も経験することができた。

そして他人を傷つけたり、結果として見捨てることもしてしまった。今の自分なら許せたり、助けられたこともあったろう。

逆に今の自分ならもっと早く見切りをつけたり、曖昧にせず絶対に許さなかったということもある。

それもこれも含めて40歳までは助走の人生であったと思う。

「きっと(ブログに)書けないこともたくさんあるだろ」

確かにそうなんだけど、正確には「書く必要がないことを書かないようにしている」というのがより正しい。

例えば、その時に経営のことで苦悩していたり、極めて困難な状況に置かれていたり、あるいは辛酸を舐めるような仕打ちを受けていたとしても、それを文章にすることは文字の垂れ流しでしかないと思っている。それはボクが黙って乗り越えたら良いのだ。泣き言やまだ克服できてないことは書く必要がない。

だってこの世に生まれて生きている限り、すべての人が苦悩とか困難とか辛酸にまみれて生きるのが当たり前で、だから磨かれるし、だから成長できるんだから。

泣きたい気持ちになったり、つっかえ棒が欲しくなるのは国のトップから乞食まで60億人みんないっしょだ。

そもそも自分だけ不幸と思うことが不幸なんだ。

感謝すべきことは身の回りにゴロゴロころがっている。

朝、目が覚めること自体当たり前のことじゃない。

無事に目が覚め、顔を洗う水の冷たさを感じ、笑顔でおはようを言う相手がいて、交差点で道を譲れば笑顔が返ってきて、自分を必要とする仕事(家事、学業)があって、そういう小さなことひとつひとつに感謝できたなら、もうそれはシアワセ以外のなにものでもない。シアワセも不幸も、脳味噌のシワのフォーメーションに過ぎない。

日常の大小のハードルは「必然」であり、自分自身の「磨き砂」だから、声高に「やってまっせ」とアピールするのではなくそれぞれが粛々と取り組んだら良いのだ。

こえられない試練なんてないんだから。