判断基準
- 2007.10.03
- 日記

火曜日の夜、トーランスの剣道場から。
つい先週は半袖のシャツでちょうどよかったのに、今日は日が落ちると肌寒くて、春先以来の厚手のパーカーを羽織ってきた。すんませんすんませんと突然秋が来た感じ。
先日、テストで88点をもらった息子が採点ミスに気づいた。つけ間違いで、実際には83点だったそうだ。本人は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、先生のところに訂正に行って、めでたく83点に直してもらったと言う。
世間ではバカ正直というのかも知れないけど、ボクは少し安心をした。
「お前良くやったな。それって、100点取ることよりずっと大事なことだ。たいへんよろしい」
頭をよしよし撫でてやった。上等なことである。
それにひきかえ、漢字テストで「先生、見えにくいけど、これ、はねてます」と瞳を輝かせたり、2を「カタチが悪いけど3です」とすました顔で言っていたのはどこの誰であったか。30点が33点になってどうするというのだ。
はてさて。そんなボクだけど、歳をかさねて当時よりは多少の分別がつくようになってきた。と、思いたい。
いったん自分のことは棚にあげよう。
アメリカに限らず昨今の世の中は、騙されるのが悪いとか、勝てば官軍的な価値観がまかり通っているけど、それっておかしいぞと感じている。
1000人のうち、1000人が正しいと言ってもおかしいことはおかしい。
そもそも多数決なんて何の意味もない。
「みんなやってるから」は当然通らない。
「合法だから」という話では絶対にない。
「先にやったのは向こう」とか「やられたからやり返す」もちがう。明らかに相手が原因の時、カッとなったり、傲慢な気持ちがムクムク出てくる毎日だけど、やっぱりいただけない。
稲盛さんが経営の「け」の字も知らずに27歳で創業して以来、迷ったときは今日まで「お天道さまに恥ずかしくないかどうか」を判断基準にされたそうだ。
それを聴いた時、スコンと腹に落ちた。
そうなんだ。迷ったときは自分の胸の中のお天道さまに伺いを立てたら決しておかしなことにはならない。
ボクの言葉で言い換えたら、自分の子どもや社員、未来の人たちに恥ずべきことはないか、あるいは同じことを世界中の人がしたらどういう世の中になるか考えて行動したら、まちがったほうには行かないと思っている。
そうわかっていても大量反省の毎日だ。
ボクは流れ者ではないけど流され者だから。
つい甘い方に流されそうになる。
「有言実行」
次世代に恥じない自分になろう。
次世代に恥じない世の中を渡そう。