「私にもしもの時は」
- 2010.07.04
- 日記

7月3日、土曜日の朝。
友人でハワイ在住のピアニスト、CHIYOさんのアルバム「JACARANDA」を聴いている。
このアルバムを休日の朝やちょっと凹んだ時に聴くとじゅわっと心が安らいでゆく。
昨日はカゼをもらったようで久しぶりに早退。12時間眠り続けた。まだ頭がぼうっとしている。
この1月あまりで、サンディエゴ>シカゴ>サンディエゴ>ハワイ>サンディエゴと遠征続きだったから、身体の方もひっくり返るタイミングを見計らっていたのかも知れない。この連休はしっかり充電に充てよう。
母親から「悪性の腫瘍が見つかって緊急で手術をすることになった」とメールが入ったのが1週間前。
ギクッとしたけど、気を引くためなら手間と時間を惜しまない母親。真意が読めない。シリアスなのか気を引くためか。
ボクが3歳の頃か、退屈した母親は「もうお母ちゃんは出て行くから。ひとりで暮らしな」と、風呂敷に荷物を詰めて背中に担いで出て行くフリまでした。うちは父親が船乗りでふだんは母子家庭だったから、泣いて出て行かないでほしいと懇願した。
その前後、「実は母ちゃんは山の神様なんや。アンタが5歳になったら山に帰らんといかん。母ちゃんがいなくなっても元気で暮らすんよ」とここでも思い切り泣かされた。母親はそんなウソしっかり忘れてたけど、それからの毎日、遊んでいる時、紙芝居を眺めている時、夜寝入る時、ふと我に帰っては残りの時間を想い幼い胸を痛めた。
ハッタリのネタは尽きなかったし、約束の反故は日常だった。
そうやってエスカレートする「人騒がせ」や、同時進行で加速する家庭崩壊に、やがてボクの心は伸び切ったゴムのようになってしまい、中学に入る前後からだんだん「家族」と距離を置くようになった。
時を経て、ボクが中学を卒業して全寮生の高専に入った夏、母親は子宮にできた腫瘍を摘出するための手術を受けた。
世の中の多くの母親はきっとそんな場面で「大したことはないから」「心配をかけてごめんね」と慮るのだろうが、うちの場合は「確率は五分五分かそれ以下や。かなり危ない」「人生最後のチャンポンが食べたいから出前して」「棺桶には、名古屋のウイロウと白いバラをいっぱい入れてね。ウイロウは今食べれるけど」「お父さんとはお墓は別にしてよ」と心配させたり困らせた。
手術の前、ボクは徳島の日和佐から高知の室戸岬までお遍路さんを歩いて、アスファルトの照り返しの中で手術の成功を祈り続けた。
そして結局助かった。
あれから30年近い時間が経過した。その後の物語を記すには百科事典の文字量を要するからここでは省略する。
今回も話半分、ダマされんぞと思う自分と、もうここまで引っ張られたら最後までダマされようと諦める自分がいる。生きたくて生きられない人が溢れる世の中で、もしも気を引くために誇張していたとしたら許されないことだと思う。
ボクへのメールにあった「私にもしもの時は」の文字にはザラリとした気持ちにしかならない。飽きるほど見てきたから。
それでも今月の日本出張中、弟と母親を訪ねることにした。
またハッタリやったかとため息をつきながら安心したい自分がいる。
無事だったらいい。助かったらいい。
新しいダンナさんに任せきりでちっとも母親をかまってなかったこと、実は心の底で反省してる。