剣道全米選手権大会

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2008年7月3日から5日にかけて、ラスベガスのキャニオンスプリングハイスクールを会場に、剣道の全米選手権が開催された。

同大会は、3年に1回、全米222の道場が加盟する15の団体の代表選手が、アメリカの頂点を目指して競い合う国内最大のトーナメント。

この大会の成績優秀者の中から、やはり3年に1回開催される世界選手権の代表選手が選ばれる。

近年、アメリカ剣道界のレベルは著しく向上し、前回の2006年の世界選手権では、団体の準決勝戦で、なんとアメリカチームは、本家の日本選抜を撃破して準優勝を果たしている(優勝は韓国)。

そんな名誉ある大会の候補選手(13−15歳の部)のひとりに、息子の玄(はるか)が選んでもらったのが一年前。

以来、息子がハードな稽古をするのは当然だけど、通常の練習に加えて、週末の特別練習のために、冬は夜が明けぬうちからハンドルを握り、夏は暑さに耐え、我が身の稽古を横に置いて、一生懸命に剣士を育ててくれた先生方や先輩剣士のおかげでこの日を迎えることができた。

損得だけでモノごとを図り、他人より自分、未来より目先のことしか考えぬ人が多い世の中で、自分のプライベートの時間を費やし、無償で後進の指導にあたる若い指導者たちに、ボクはいつも心で手を合わせた。かつて日本にあった誇るべき精神が剣道には受け継がれている。

大会前の稽古後、息子は団体戦の代表選手(5人)のひとりに選んでもらった。

息子は140センチにも満たないチビッコなのに対し、他の選手はほとんど170センチを超える立派な体格。いつだってそうだけど、息子はいつも頭一個分背の高い相手と戦ってきた。それでも、ガッツとすばしっこさで何とか勝ってきた。

そしていよいよ本番。

試合には、5人のうち3人(先鋒、中堅、大将)が出場して2人は補欠。

玄のチームは、午前中の予選リーグ(3チームが2チームに絞られる)で、いきなり最初の試合を1−2で落とす波乱があった。

優勝だけを目指して頑張ってきた子どもたちにショックの色が隠せない。

沈滞ムードの中、この試合を落としたら敗退という大切な2試合目に、玄は先鋒(3人のうち最初に試合)として出場した。

スタンドから眺める息子は、ぴょんぴょんとカエルのようにジャンプしている。自分なりに緊張をほぐしているのだろう。

一週間前、「ボクなんだか緊張するなあ」と言っていたのを思い出す。

ボクはと言えばもう心臓が破裂しそう。神さまには感謝しかしないと決めているのに思い切りお願いしている。「どうか息子を勝たせてください」

「はじめ!」

審判に試合開始の声。


ひとまわり大きな相手の速い竹刀さばきに、小さな玄は防戦しながらわずかな隙を窺っているのがわかる。時々、相手の竹刀が際どいところに当たっては気を失いそうになる。

「パシンッ!」

飛び上がった玄の竹刀の先が相手の面を打った時、3人の審判の白い旗が一斉に上がった。


会場の割れるような拍手と歓声。

「ウォッシャーーー!!!」

剣道の応援としては行儀が悪いがボクは両手を天に突上げた。


そしてその次の瞬間、再び3本の白い旗が上がった。

2本勝ち。

自分がこんな親バカだとは思わなかった。泣いているのだ。誰にも見られたくない。まだ試合が始まったばかりで。

玄は生まれてからよく熱を出し、お医者さんにかかってばかりだったから、健康でやさしい人に育ってくれたら十分、いや十二分だと思っている。

実際、多くを望まないせいか、勉強も怪しいし、ボクに似て注意力も散漫だ。

だけど、こうして無事育ってくれて、オマケにこんな舞台で親孝行までしてくれて。いつかボクがあの世に行く瞬間、きっとこのシーンは思い浮かべるだろう。

勢いに乗ったチームはその後オール二本勝ちで決勝リーグに駒を進めた。

試合後に便所で用を足していたら、尻にキックを埋められた。振り返ると笑顔の玄だった。

「お前、格好良かったじゃないか。頑張ったな」

「まあね」

「この調子なら決勝リーグも出してもらえそうだな。頑張れよ」

「うん、頑張ってみる!」

「その調子なら大丈夫だ!」

結論から言うと、その後の決勝リーグも決勝戦も、玄のSCKF(南カリフォルニア剣道協会)チームは勝ち続け、念願の全米優勝を果たした。

だけど、玄はその最初の試合以降、面をつけることはなく、野球でいうベンチを温め続けた。

親としてはもう少し息子の勇姿を見たい気持ちもあったけど、自分が出られなくても最後まで笑顔で仲間を励まし、声を枯らして応援する小さな息子が誇らしかった。