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込山洋一

ワインの栓といっしょに

感謝祭の4連休も今日が最後の日曜日。

この4日間すべての夜、友人知人に招かれたり、招いてもらったりして楽しい時間を過ごしている。運動と食事制限で30ポンドしぼったのも今は昔。この人生に悔いナシという勢いで飲み食いしている。

おかげで心身の疲れがすっかり抜けてしまって、明日からの緊張感の中での毎日が待ち遠しいくらい。体重は横に置いてベストコンディション。

女性読者を多く抱える情報誌の発行人としても、そういうリラックスした中で、家内や子どもの関係のお母さんたちがふだん考えていることや、抱えている問題について、じっくり話を聞かせてもらえて良かった。

偶然にも近頃、同世代の女性と話をする機会が多い。

専業主婦、仕事を持つ女性。

30歳代後半から40歳代の多くの女性は、ちょうど親のこと、子どものこと、夫婦関係、仕事関係、さまざまな人間関係のなかで、自分のことを後回しにして一生懸命に生きている。組織でも家庭でも支えている人が多いから、自分が辛いとか折れそうとか言ってられないのだ。

男はつらいよかもしれないが、女もつらいのね。

人前では笑っていても、何の問題も抱えていない人なんていなくて、ひとつやふたつ必ず深刻な問題や後悔を胸に秘めている。

10人いたら、10の何倍もの数の苦悩があるのだ。

いつも怒ってばかりで、確執を残したまま他界した父親のこと。

プロジェクトが一段落したら帰国して、まとめて親孝行したかったのに、その前に最後の肉親の母親が旅立ったこと。

傲慢や浮気がもとで家庭を壊し、孤独に暮らす老いた母親のこと。

家出をしたままアルバイトでつなぐ不登校の息子のこと。

今も幼少期に受けた親からの虐待のトラウマが残っていること。

永住を決め、駐在員から現地採用になったものの収入激減で、息子二人の大学進学を控えて、仕事に家事に悪戦苦闘しながら家族を支えていること。

90歳を過ぎた祖母を介護する母親自身の老いが迫っていること。

主人の脱サラ後、始めた事業が軌道に乗るよう、資金繰りや社員のことで必死に踏ん張って内側を支えていること。

旦那(ひとり息子)の父親が他界して、老いた母親を日本にひとり置いたままで良いのか、現地生まれの子どもの将来との間で悩んでいること。

だけど。
みんなオトナだから暗い酒にはならない。
みんな酒豪だから空のボトルがコロコロ転がる。

ワインの栓といっしょに、ふだん胸の奥に溜め込まれていく「心の荷物」を抜いてしまうことで、女性たちはまた明日からココロを軽くして、誰かにやさしくなれるのだと思った。

11 25, 2007

二等航海士の加藤さん

もうすぐ11時。身内で祝った感謝祭の余韻に浸りながら書斎にひとり。

食器洗いや片付けは若者たちがキレイにやってくれてキッチンはピカピカ。

ボクもそうだったけど、プライベートのヒトの集まりではしっかり楽しむ一方で、若いメンバーや新米が率先して片付けをするのが基本中の基本だと思っている。もちろん、ホストの細君が必要ないというのを押し退けてまでする必要はないからケースバイケースだけど。

友人知人の家の泊まる場合も同様で、ホストの奥さんが気を使わない程度に、使ったタオルを畳んでおくとか、ベッドメイクをするとか、洗面所のまわりはサッとタオルで拭いておくくらいはしておきたい。タオルを畳まないまでもホテルも同様。

この習慣は商船学校で学ばせてもらった。

船では「(自分が)乗る前よりも美しく」という言葉がある。加えて、何がどこにあるかすぐにわかるよう公私に整理整頓が求められる。

たぶん、船の世界では常に「死」が隣り合わせだから、万が一の時に必要なものを最短時間で取り出したり、避難の時に、不要なものが脱出の進路を遮ったりすることがないように常に整理整頓しているのだろう。

卒業前の一年間の航海実習時代、夜の当直が終わって、同じ部の10数人で小さな宴会をやった。酒も回り、どうせ翌朝起きたらそのまま掃除の時間だから「明日、掃除の時に片付けよう」とそのままの状態で解散した。

翌朝、仲間が血相を変えて呼びにくる。慌てて宴会をやった教室に行くと、二等航海士の士官が、散らかったまま放置された宴会ゴミを前に、顔を真っ赤にして怒っている。

そこでボクは、全員を代表してチカラ一杯殴られた。

顔が焼けるように熱かった。

その時は、逆らって下船でもさせられたら堪らないから、神妙な顔でやり過ごしたけど、腹の中では、むしろ自分ひとり殴られたことに対する逆恨みや、プライドを傷つけられた思いの方が強かった。

そしてその若い士官が、心なしか目のまわりが赤く泣いているように見えた理由がわからなかった。

社会に出てから、非常識であったことがようやくわかった。

それからウンと後に人を指導する身になって、どれほど恥ずかしいことであったか心底わかるようになってきた。

叱られるより叱る方が100倍も辛い。

本気で怒ってくれる人の存在がどれほどありがたいか。目をかけぬ(期待せぬ)ものには怒りもせねば、真剣につき合いもしないのだ。

叶うものなら加藤さんに感謝の言葉を伝えたい。

11 23, 2007

収穫祭の午後

「ハンバーグとステーキ、それから鮭のハラミ、春雨サラダでも持っていくよ。それと寺っち(留学生/ライトハウスの舎弟)も連れて行くわ」

午後3時、弟からの電話でのそのそとベッドから這い出した。

今日はサンクスギビングデイ(収穫祭)。

いろいろなことが乗り切れたところへ4連休前で気が緩み、昨晩は同業の熱き青年と、弟の店「WAKYO」で痛飲し4ヶ月ぶりにハシゴ酒。タクシーを降りてご機嫌さんで玄関のベルを鳴らすと(鍵をどこかに置き忘れた)、中から怖い顔でカミサンが出てきた。怒るわな、2時だもの。

そしてあろうことか、今朝はトーランス市の恒例イベント「ターキートロット5キロ走」。

4時間余りの浅い眠りでモチベーションゼロ。

「なんかあったらいけないから、オレ留守番して家を守るわ」と取りあえず言ってみたけど、そんな話が通るはずもなく黙殺。家族で5キロ走に出場した。もう大陸横断するかと思うくらい長かった。

帰宅後はそのままダウン。

下はパジャマのズボンのままキッチンに行くと、おでんの仕込みが終わった親父と、朝からビーフシチューとターキーをこしらえたカミサンが一段落してのんびり茶を飲んでいる。

なにも仕事をしてなくてバツが悪いボクは、取りあえずカミサンの肩を揉んでやろうと手をかけたら「お父さんが先でしょ」「そりゃそうだ」と、オヤジの肩を揉んでみた。来年70歳になるのに肩の筋肉がしっかりついている。健康でいてくれるのはありがたい。

窓の外、遠くの木々を秋の終わりの風が寒そうに揺らしている。
12月がすぐそこだ。

11 22, 2007

まっすぐな視線の中で

年末最後の版入までいよいよ残り3週間。

昨夜もボクが9時半に事務所を出る時、まだほとんどのメンバーが残って追い込み作業に取り組んでいた。例年、増刊号の前後や年末は制作と数字両方の修羅場が続く。

そんな中、今朝の社内勉強会では「追い込み時、失敗やトラブル時、ピンチの時、仲間のこの一言、このフォローに助けられた」というテーマで話し合った。

こんな時だからこそ、仲間への感謝と思いやる気持ちを持ってほしかったから。各グループ、できるだけ社歴の浅いメンバーに発表させた。

「締め切り前の余裕のない時に、先輩のメンバーが和(なご)む話をしてくれたり、ピリピリならないよう配慮してくれる」

「ギリギリの受注にも、制作が気持ち良く受けてくれて、お客さんに喜んでもらえるようスピーディに作ってくれた」

「残業で疲れて帰る時に、同僚が目を見て『おつかれさま!』って言ってくれると疲れも吹き飛ぶ」

「失敗した時に上司から責められるのではなく、解決のためにいっしょになって最善を尽くしてくれる。頼りになるしうれしかった」

「残業の時にチキンとか夜食が出た」>「・・・。」

「失敗をみんなが助けてくれる」

うちのメンバーはまだまだ仕事がデコボコで、お客さんやベンダーさんに迷惑をかけたり助けてもらうことばかりだ。

本当に発展途上だけど、こんなに気持ちの良い仲間がよく集まったものだと感心するくらいみな人柄が良い。職場の空気感が良い。イジワルやひねくれ者がいないのだ。

もちろんそこに甘んじてはならないし、成長し続けねばならない。

「営業だから取材ができないではいけない。キチンとヒアリングや文章が書けるよう努力して。編集も制作も、直接営業職ではなくても、お客さんに勧めたり、提案ができなくてはならない。ここにいる全員が営業の意識も持って」

「お互いへのやさしいや思いやりと、妥協したり見逃す(見過ごす)ことはまったくちがう。

制作は、営業のヒアリング(広告の打合せ)が甘かったり、いい加減だったら許してはならないし、営業も、広告の仕上がりに納得できなかったら通してはならない。オレたちはプロなんだから決して妥協しないで。

そもそもオレたちはここに「読者」「広告主」「メンバー」がシアワセになるために集まっている。その3者すべてにとってシアワセかどうかを判断基準にしたら必ず答えはひとつしかないはずだから」

そんな檄を今日も飛ばした。

メンバーのまっすぐな視線の中で、この会社を、この情報誌を、このメンバーたちを、人生をかけて正しい方向に導かなくてはならないと思う。そしてボク自身が一番進化しなくてはならない。

11 21, 2007

大躍進、1,300スクエアの部屋へ

当時のオフィスは16901 S. Western Ave. Gardenaだった。
今もウェスタンを走ると、赤煉瓦の二階建てのビルがなつかしい。

オーナーは雲丹(うに)で有名な丸秀の秀さん。面倒見が良くて、右も左もわからぬボクを応援してくれたオトナのひとりだ。

金がないと一階の管理事務所でよくタダ酒とタダ雲丹をご馳走になった。
「腹いっぱい食わせてください」とボディランゲージでモジモジしていると、やさしく「ついておいで」とナイトクラブに直行して、空腹で気絶しそうになることもあった。

「コミヤマくん、となりのスペースが空くんだけど入んない?」

350スクエアから1300スクエアへの大躍進だった。家賃も250ドルから850ドル。もうかなり月面宙返り(ムーンサルト)。

「秀さん、払えなくなったらどうしよう」

「大丈夫だよ。その代わりずっといろよ」

「ありがとうございます!」
(この約束は事業が大きくなって手狭になったため果たせなかった)

850スクエアの新オフィスは、広めの作業スペースに、5つの小部屋があった。

そしてそこで人生初めての社長室というものを得ることができた。

うれしくて、受話器を握ってみたり、難しい顔で紙に何かを書いているところを弟に写真で撮らせた。今ではアルバムをめくる時に恥ずかしくて早送りする塩っぱいページだ。

社長室と言っても、ボクの机に折りたたみの長テーブルを「コ」の字型に組んで、会議室や応接間、ときに教室と変貌自在に活用した。

この部屋で編集会議をしたり、お客さんをもてなしたり、時には期待のメンバーから退職の意思を告げられたり、時に声を絞り出すように解雇を告げることもあった。

人が増える喜びと、会社を守るために鬼になることを最初に学んだ1300スクエアでもあった。

「受話器」で思い出したけど、世の中からずいぶんと遅れて、この頃に初めて携帯電話というものを持った。

今のように胸ポケットに入るようなコンパクトなものではなく、ドラえもんのポケットが裂けるくらいでっかくって重かった。今なら怪しまれて入管で間違いなく停められるだろう。

町でみんなが持っている携帯電話より2まわりくらい大きな電話で、時代の最後尾を走っていたけど、カバンと同じくらい大きなその電話を担いでダウンタウンのビル街を颯爽(さっそう)と歩くのが実は誇らしくもあった。

同時に、日系メディアが26社ある最後尾から始めた情報誌だけど、言葉にできない(根拠のない?)手応えを感じはじめたのもこの頃だった。

11 21, 2007

引越物語

いよいよロサンゼルスの新社屋の工事が始まった。

今度のオフィスはトーランスの市役所のすぐ横に開発されたビジネスセンターの中の一棟で、7,700スクエアフィート(220坪)の広さ。1階部分は半分が吹き抜けで5,500スクエア、2階は2,200スクエアある。

まったく箱の状態から、設計とデザインは伊藤デザイン、建築は相浜建設にお願いしている。

伊藤デザインは帝国ホテル大阪など一流ホテルのデザインを手掛けるマーク伊藤氏のデザイン事務所。相浜さんも当地では腕が確かなことで評判だ。

ボクとしてはかなり背伸びをしてお願いしているけど、恥をかかさぬようプロの方達が気持ち良く「夢」をカタチにしてくれている。

今度のオフィスの目玉は2階すべてを使ったエンターテイメントスペース。

ビールが120缶冷やせるカウンターバー、スポーツ観戦や遠隔会議のための60インチモニター、ビリヤード台、マッサージチェア、ソファーセットやダイニングテーブル。50人くらいのパーティなら楽々できそうだ。

ここはアフターに、ライトハウスとLCEのメンバー、ベンダーさんやお客さんが寛(くつろ)いだり、夢を熱く語ったり、クリエイティブについて意見を戦わせたり、情報交換や勉強会をしたり、そんな空間にしたいと思っている。

またスタッフの家族や日本からの親御さんにも遊びにきてもらって、少しだけでも安心して帰ってもらえたらと期待している。

創業時(19年前)のアパートの一室のオフィスは通勤時間がゼロだし、手を伸ばせば冷蔵庫もコピーマシンもホッチキスもゲラ束も届くから便利だった。また洗濯機を回しながらワープロが打てる環境は捨て難かった。

書いていて思い出した。

当時、金もないのに知人から3000ドルでアルファロメオを買った。

やったぜボクもイタリア車のオーナーと思ったのも束の間、2回目か3回目のドライブの時だった。405FWYをガーデナに向けて帰っている時に「ドッカーン」聞いたことのないような爆音が鳴った。

あたりを見回すと、他でもないボクではないか。

ボンネットから前方が見えないくらい白煙が吹き出し、バックミラーにはクモの子を散らすようにまわりの車が逃げている。なんてこったい。

ほどなくカクカクと車が減速し始める。

右の路肩に寄せようと試みたが、右ナナメ後ろからすごい勢いでトレーラーが突っ込んでくる。

「最終回」という文字が浮かんだ。

が、間一髪、トレーラーが通り抜け、ロメオがヨレヨレと停止したところで路肩に侵入。その後ろを猛烈な勢いで車が通り過ぎていく。

よく歳をとって大病した方が「おつりの人生」という言葉を使うけど、24歳にして「おつり大放出」の命拾いだった。

話は引越に戻ろう。

初めて借りた350スクエアのオフィスはラジオ局とシェアだった。
うれしさより、250ドルの家賃が払っていけるかの方が心配だった。

あいかわらず経営は低空飛行で、当時事務のパートをしてくれていた女性の1000ドル足らずの人件費が、家賃捻出と印刷代と毎月の3大支払い目標だった。当時の生活は家庭教師でつなぎ、自分の給料をもらうという発想も入金もなかった。だから経理はいたってシンプル。

そしてその年(90年)に弟が転がり込んできて、バックナンバーの小部屋に暮らしはじめた。最初はラジオ局の人が出社すると、歯を磨く小汚い男がいて魂消(たまげ)たらしい。

懐かしついでに書くと、当時表2ページ(表紙の裏ページ)にカラーのハーフページで掲載してくれているナイトクラブがあった。当時では一番大きな広告主で、その店の広告料が事務の女性の給料とほぼいっしょだった。

運良くオーナーに気に入られて、夜の10時や11時に電話がかかってくる。

「おい、コミヤマなにしとる。ちょっとこいや」

ちょっとこいやでコスタメサ。

閉店2時までよくカラオケの司会をさせられた。

「なにやってんだろう」とやや沈んでしまう帰り道。それでも「これで給料、これで給料」と呪文のようにつぶやいてハンドルを握った。

ピンポイントではしびれたけど、おかげで歌も司会も多少上手になった。短気で無茶もいう大将だったけどよく鍛えてくれたし、かわいがってくれた。おかげでスタッフの給料も払えたし。

過ぎてみると楽しいことばかりだった。

11 20, 2007

いかんぞ加ト吉

朝起きるとそのまま中庭に出て、深呼吸とストレッチをして、プールで泳ぐのを習慣にしている。出張先でもホテルのシャワーで必ず水を浴びる。

これは5、6年前に、日本出張中に風邪をもらってヨレヨレの時に知人の大学の先生に教えてもらって以来続けている健康法。実際ほとんど風邪をひかなくなったし、朝のこの習慣で心身ともにシャキッとして一日が始まる。

日経新聞の見出しを追いながら朝食。

それにしても近年食品業界の不祥事が絶えなかった。ちょっと前の雪印に始まって、同じく北海道の肉の業者、土産物の白い恋人、ペコちゃんの不二屋、船場吉兆等、最初は驚いてばかりいたけど、近頃ではうんざりして記事も読まない。

目玉焼きをこしらえる家内に、

「しっかりしてくれたまえ、赤福くん」(家内は赤福と同じ三重出身)

と注意したら、

「申し訳ありません、加ト吉さん」(ボクは香川出身)

と返された。イタい。

11 19, 2007

オランダからの友人

週末、オランダのアムステルダムに駐在する友人の江川さんがロサンゼルスに遊びに来てくれた。

アスリート系の江川さんとは、彼がNTTの駐在員としてロサンゼルスに赴任した(お互い20代であった)90年前半からのつき合い。

彼がニューヨークに転勤するまでの間、二人でカナダの国立公園(バンフ―ジャスパー間)を自転車で走破したり、ペルー、ボリビアの都市や遺跡を出たとこ勝負で旅したりした。

また近郊では、ホイットニー山を登頂したり、はたまた映画「パピヨン」の舞台でも有名なサンフランシスコ沖アルカトラス島からのレース(競泳)に出場したり(この時ボクは漂流して救助された)、メキシコや方々の自転車イベントに参加したりしていっしょにカラダを動かしてばかりいた。

その後も転勤先のニューヨークをボクが訪ねたり、奥さんをもらって新婚旅行で来てくれたり、日本で家族いっしょに食事をしたりして親交を重ねてきた。

そんなことで久しぶりの再会は昔話や互いの近況に花が咲いた。

江川さんは現在オランダ、ベルギー、ルクセンブルグの3国の支店長をしていて、なんだかエラく広い範囲みたいだけど、ブルッセル(ベルギー)までは車で3時間、ルクセンブルグまで5時間くらいの距離感の中で仕事をしている。

今日は彼に聞いた現地の愉快な話を披露してします。生活者の話なんで、ガイドブックにはなかなか出て来ない。

まずオランダ人がでっかい話から。

180センチを超える江川さんもオランダでは埋没してしまうくらいでかい。

その理由には二つの説があるそうだ。

ひとつは土地が低いから、海水に浸っても顔を出せるようにするため。

もうひとつは、肉をよく食べる国なので、牛に使った成長促進剤が人間にも効いているから(という説)。ちょっと怖い。

続いてはベルギー人が作った、ケチで有名なオランダ人がどのくらいケチかをあらわす逸話。

二人のオランダ人が食事をして、どっちが勘定を奢るか決めるために勝負をした。その方法は洗面器に顔を浸けて、先に顔を上げた方が勘定を払うというもの。

結果は二人とも顔を浸けたままあの世に行った。

オランダ人も切り返す。

ベルギーの歴史の教科書は3ページでおしまい(それだけ歴史がない)

ベルギー【Belgique】別ウィンドウで表示
ヨーロッパ北西部、北海に面する立憲王国。首都ブリュッセル。石炭に恵まれて鉄鋼業が発達。酪農も行われる。1830年オランダから独立。

どこも隣同士の国とはやり合うもののようだ。

オランダ人は戦争で攻めてきたドイツのことをまだ根に持っていて、ドイツ人にジョークで「ボクの自転車どこに行ったの?」(戦争の時に物資を奪われたらしい)とやるらしい。これにはドイツ人も一言も返せないそうだ。

ちょっと残念なのは、多くのヨーロッパのヒトたちがアメリカのことをあまり良く思っていない(らしい)こと。傲慢で身勝手な国だと思っているようだ。

ブッシュの親父さん以来の振る舞いや決断をみたら確かに仕方がない。決してみんながみんな独善的で戦争好きではないんだけどなあ。大好きなアメリカが世界の中で嫌われたり孤立していくのは辛い。

話題を変えて「パン」の話。フランスからベルギー、オランダに来るほどマズくなるそうだ。

先にも述べたけど、オランダ人は倹約家(ケチ?)で、外で食事をするという習慣があまりないためレストランが人口の割に少ないそうだ。ヒトが来ないから料金も高い。高いからヒトも来ない。らしい。

江川さんのオフィスでも、従業員が月曜日にパンとハム、レタスやチーズを買い出しに行って、毎日冷蔵庫から出して作るのだそうだ。

最後に、江川さんが通うスポーツジムの話。

更衣室の先にあるジャグジは男女混浴になっていて、水着もタオルも身にまとってはいけないのだそうだ。

老若男女、戸惑うふうもなくポンポン脱いでは入ってくるそうで、にわかに想像がつかないけど、その空間ではそれがふつうらしい。ふつうではないのが江川さんのアタマの中で、ひとり目のやり場に困りつつ、自意識過剰気味にヨタヨタとその場を去る日本男子なのであった。

恐るべし、オランダ。

11 19, 2007

父の背中に飛び乗れば

息子の剣道から帰ってメールの返信が一段落して、さあ焼酎でも飲んで寝ようかと思ったタイミングで「部屋まで連れてって」と息子が甘えて背中に登る。もう13歳にもなって。

呆れながらも、部屋までオンブで“赤ちゃん”を運ぶ。

しばらく添い寝をしながら、こういう時間もあと一年ないんだろうなあとぼんやり天井のあたりを眺める。いつもまでも甘えていてほしい自分と、強く逞しくなってほしい自分がごっちゃに共存する。

複雑なゴールデンタイム。

甘え方を知らなかったボクは親の背中の記憶がない。たぶん2歳か3歳のボクが、父の肩車で笑う写真を知るのみだ。

明日会社で見つけたら背中に飛び乗ろうかな。

そのまま崩れる親子を想像して頭(かぶり)を振った。

いかん、おやすみタイムだ。

11 14, 2007

練れない兄

底冷えする剣道場から。

今晩はカミさんが学校の用事でいないので、夕方6時過ぎには仕事を切り上げて、自宅で待つ息子をピックアップに。

息子が小さな手で握った、梅干しの入ったおむすびを「パパ、ありがとう」とボクに持たせる。それから「まだ熱いよ」とスープをよそってくれた。

今朝は5時前に目が覚めてそのまま机に向かい、出社から夕方まで来客とミーティングが途切れずに一日が暮れた。時計を見る間もないくらい一日早かった。こういう一日が好きだ。

スープの湯気にホッと一息。

午後に新刊のサイン会のポスターの撮影に「ロス日記」(ライトハウスの人気コラム)の著者阿木先生が来てくださった。

「キミは若いと思っているだろうが、いつまでも23、4じゃないんだぜ。体力にまかせてやっているけど、ぶっ倒れることもある。何があってもおかしくない歳なんだ。そのときのキミのバックアップ態勢も考えておかなくっちゃならんぞ」

コーヒーを片手に少し怖い顔で阿木先生がおっしゃったアドバイスを思い出す。

「春先に測った体内年齢は21歳でした」と返したかったけど、口を噤(つぐ)んで、かわりにまっすぐ「はい」と応えた。素直に受入れなくてはならない。

こんなところでぶっ倒れている場合ではない。ぶっ倒れるわけもない。

そう思いながら、昼間お客を連れて行った時、行列ができるほどてんてこ舞いの中、気を利かせて一口カツをさりげなくオマケで出してくれた弟の顔が過(よぎ)った。

紆余曲折を経て、ようやく二つの自分の店に行列ができるようになり、本来の笑顔を取り戻した弟がいる。

あのバカの営業力があったらライトハウスはもっと勝負ができるのに。

と、弟の店の繁盛を喜ばねばならぬのに、文句のひとつも言いたい気分の、まだ練れていない兄がいる。

11 13, 2007