母親の話

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若い頃は、いや歳を取っても、酒を飲んでは暴れるし、機嫌良いと、自分が大切にしてるものをポンポンあげて翌朝アタマを抱えていたり、また、ボクが県外の学校に進学したら、長距離電話のその先で「うっ、苦しい・・・ガチャ、ツーツーツー」ウソで倒れる振りをして心配させたり、本当に破天荒な母親だった。

エピソードは尽きない。

ある時は友だちをみんな呼べ、ご馳走するからと、大きなテーブルから落ちるくらい料理をこしらえてくれたけど、仲間たちから母親へのリスペクトが足りないと、10分くらいで「みんな、いつ帰るの」と強烈に不機嫌になった。

ボクは母親のおかげで、グレるタイミングを完全に逸してしまった。

そしてボクは大人になってもしばらくは、地球は母親を中心に回っているかと思っていた。

その一方で、四国の田舎の支店なのに、過酷な生命保険の営業では、市場の大きな首都圏の営業マンが上位を占める中で、日本全国でいつも母親はトップクラスだった。

小学校の頃は、3ヶ月に1回の記念月になると、いっしょになって販促ツールを真夜中までこしらえたり、一日歩いてパンパンになった足を母親が寝るまで揉んだ。寝たかなと、忍び足で部屋を出ようとすると「うぅ、足が燃えるように熱い」と呼び戻された。

「とてつもない目標だけど、私が達成することができたら、3人(母親とボクと弟)で、沖縄海洋博にいこう。いっしょに達成したらご褒美や。達成したらあんたらのおかげや」

そうやって意気込む母親に代わって、早起きして朝ご飯を作ったり、家事を手伝ったけど、達成したら話題を避け、約束は守られなかった。

文句を言うと逆ギレされて、オトナの世界の理不尽を早い段階からインストールされた。

会社を20年も経営していると、むちゃくちゃな人も擦(かす)るけど、母親に比べるとまだ甘いと思う。

そうそう、ウクレレや近くにあるもので殴られたり、飛んでくるから、反射神経がやたら良くなった。スポーツの成績が良かったのは母親のおかげだ。

だけど、もしその舞台がアメリカだったら、チャイルドアビューズ(幼児虐待)で引き離されて、ボクは養子になって遠くの町の知らない両親の子どもになっていたかも知れない。名前もウィリアムとかになって。

あまり悪口を書くと、読んでいたりするので少し誉めると、情に厚いところもあって、頼ってくる人の面倒は必ずみていた。貸したまま、返ってこないカネもずいぶんあったようだ。

誉めてないか。

ボクもその血をしっかり受け継いでいるのだけど、自分のことをしっかり棚に上げて、「ヨウイチ、人間って言うのはね」と読んだばかりの本の一節を生まれたときから知っているような顔でボクに語った。

そんな母親に感謝していることがいくつかある。

ひとつは仕事の姿勢。というか、営業への執念。
四国の片田舎で日本のトップクラスの営業をするってこういうことなんだと学ばせてくれた。(それと振り回された)

もうひとつはボクが中学生の頃にカーネギーの「道は開ける」と「人を動かす」の2冊を与えてくれたこと。この2冊は何年かに一度、読み返しては奮い立ったり、我が身を振り返って軌道修正している。

そして三つ目は、アメリカに行きたいんだけどと相談というより報告をした時、黙って行かせてくれたこと。ずいぶん心配だったと思うけど、記憶の中で肝心なことを反対されたことは一度もない。

今も時々「もう離婚します」とインパクトのある電話で家族を驚かせるけど、高松の郊外で新しいダンナさんと、近所の農家に畑を借りて、花や野菜を育てながら、福祉のボランティアに忙しく走り回っている。