土曜日の朝

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日本から帰って来て一週間。

今朝は早起きして息子のサッカーの試合を観戦。

それから自宅に帰って、ようやくブログを更新するためにPCに向かっている。

中庭に目をやると、プールの底を水面の影がゆらゆらと揺れている。風の形だ。

もう12月がすぐそこなのに、庭の花々は逞しく色鮮やかに咲き誇っている。レモンの木は、たわわに実ったレモンを、早く摘んでくれと肩を凝らせている。すまぬすまぬ、庭はこんなに元気に盛り上がっていたか。ネコのご飯も切らせてしまったし。忙しくっても、こういうことに気づかないのはいただけない。

そうしていると家内が帰って来て、隣に腰掛け、ちょっと聞いてくれるとひとしきりおしゃべりを始める。原稿はいっこうに進まない。

話題は今朝のサッカーにおよぶ。

息子にとって今日の試合は、長く戦ってきた秋のリーグ戦のセミファイナル。勝てば決勝戦、負けたらおしまいという大切なゲームだった。

結論から言うと今シーズン最後の試合になってしまった。

息子は、試合後日本の補習校へむかう車中、赤い顔をして肩をふるわせて泣いていた。

家内はあと一歩で決められなかったことや、エースの二人が試合に出られないまま惜敗したことを悔しがった。

でもボクはそれもこれも含めて良いことなんだと思う。

息子には大いに悔しがると良いと思った。負けて悔しがるのは精神が健康な証拠だし、負けを受け容れることは成長を助ける。負けることを知らないと、勝ったときに、相手の痛みを酌んであげることができない。

サッカーだって野球だってすべてのスポーツで頂点に立てるのは1チームだけ。

日本の高校野球なんか何千校から勝ち上がるんだから99.99%の選手は最後に敗北を知る。敗者の痛みを知らぬまま社会に出て行くことのほうがむしろ心配してしまう。

実は彼らがその先で待っている「社会人」という時代はそんな生やさしいもんじゃない。ずっと思い通り勝ち続けられる人生なんてありえないし、勝ち負けで言ったら、人生はそのほとんどが思い通りにいかない。

社会に出れば、好む好まないにかかわらず何らかの競争に晒される。

その時に大切なのは自分さえ勝てばいい(あるいは自分だけ勝ちたい)じゃなく、「相手を思いやる心を持ち続けること」だと思う。みんなが自分だけ勝とうとしたら、世の中は成り立たなくなってしまう。

本来、「おかげさま」で人は生かされているんだと思う。許されるのは、世の中に提供する価値を高め合うような、お互い切磋琢磨する「ポジティブ」な競争だけではなかろうか。

「自分さえ良ければ他はどうなっても良い」という「ネガティブ」な競争(競争というより足の引っ張り合い)は世の中を後ろに進めてしまって、みんなが不幸になる。

人は「組織(会社)人」である前に、地球という長屋の住人のひとりであったほうが良いと思う。

長屋の住民同士なら、味噌、しょうゆを貸したり、近所の小僧が悪さをしたら他人が叱ってくれるだろう。そう見栄を張ったりカッコつける必要もない。

お互い気持ち良く暮らせるように、譲り合ったり、分かち合ったりして工夫すると思う。自分のことだけ言ってたら成り立たないもんなあ。

近頃40歳にもなったんで、一人前にどんな世の中が理想で、その中で自分はどんな社会人であるべきかについて想いをめぐらせる。

世の中全員が、人よりお金持ちになることはできないし、人より広い家の住むことはできない。価値の基準がお金とか物質に偏った途端、物足りないことを数え始めるし、人より多く抱えようとしたり、人を見下したり、卑下したりしてしまう。お金や物質への欲望には際限がない。

お金もモノも、ほどほどの贅沢も否定しない。身の丈でやってる分に人がとやかく口出すもんでもない。むしろ、振り回されるんじゃなく、キチンと使いこなすことができたら実に頼りになるツールではないか。

だけど。

しょせんはツール。それ以上でもそれ以下でもないと思う。

日本の話だけど、知り合いのオーナー社長の何人かは、コンプレックスをバネに事業を拡大した。何人かは上場していたし、上場までいかなくても、ヒルズや西新宿の高層ビル街に立派なオフィスを構えた。ゼロから億のお金を手にした彼らを、メディアは時代の寵児として華やかな面にスポットを浴びせた。

そういう社長仲間と、実は違和感を感じながらつきあっていた時代がある。

彼らベンチャー社長の多くは、競い合うように物質欲を満たしていく。決して「足る」を知らない。

仕事に汗することを忘れ、飲み代に年何千万円使ったと胸を張り、海外で何百万、何千万円のギャンブルを打つ。時にインサイダー紛いの浮いた話に手を染め、ヒルズでタレントやモデルの卵との合コンで盛り上がる。

その良さがよくわからない。 

つるんでいるけど、脱落者には薄情だし、社会の弱者に滅法強かったりする。

一方では心の底で言いようのない不安やストレスが同居している。

そんな彼らの生き様を「カッコいい」と感じる若者が後を追う。

絶対にちがうと思う。

若い人たちに、本当に「カッコいい」ということは、表に出てこないけど、満員電車に鮨詰で運ばれながら会社や家族を護っている会社員や、自分の仕事に誇りを持っている職人や、一生懸命お辞儀をして頑張る店員や、ボランティアで車椅子を押す人だってことを知ってほしい。

そんな社会を支える大多数の人が、世の中の人に尊敬され、感謝され、愛される、そういうまっとうな世の中になったらどんなに素晴らしいだろう。

それともうひとつ。

みんなが「感謝の気持ち」を持って生きられたら、きっと「ひとり」からハッピーが広がって、ハッピーの連鎖は地域や国や世の中のハッピーに広がっていくと思う。

ハッピーは身の回りを探したら驚くほどある。

今朝元気に目覚めたこと、家族や仲間が元気でいてくれること、注文した中華丼にうずらの卵が2つ入っていたこと、大好きな仲間と好きな仕事ができること、ビールが冷えててうまいこと、青空がまぶしいこと、仕事で重大な問題を抱えていること、たくさんの責任があること、冷えたシャンパンが冷蔵庫に5本くらい入っていること、香港の友が元気な知らせをくれたこと、日本の母親が再婚者と仲良くしてくれていること、弟の商売が順調なこと、親父と酒が飲めること、仲間の再就職が決まったこと、仲間の手術がうまくいって無事退院できたこと・・・・・、自分はハッピーに包まれて生きている。

感謝は無限にある。

このハッピーから発信しよう。世の中が前に進むように。

ボクは口先で終わらぬように、この南カリフォルニアの日系社会から、ライトハウスから行動を起こしたい。