母親がくる

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3月後半に母親が再婚相手とロサンゼルスにくることになった。

こっちで離婚した親父(永住権を取って、ライトハウスを手伝いながら近所で暮らしている)と鉢合わせると面倒なので、親父が法事で実家の萩に帰っている間に招待した。

親が離婚するとなかなかこういうところで気苦労がある。

ボクは幼少時代、朝令暮改で、天動説を信じて疑わない母親と、対話なしの瞬間湯沸かし器、すぐに怒って手が出る船乗りの父親の間で育った。

まあ、二人ともヒトの話を聞かないのですね。

その詳細を書いてしまうと、母親から国際電話で怒鳴られたり、家内からもこれ以上プライベートの切り売りはやめてちょうだいと非難されるので控えるが、どうも他所の家庭とはずいぶん様子がちがう環境で育った。

そもそもは親父が働いていた関西汽船の放漫経営で、リストラをされてから家族が壊れていった。まあ、逆境で気持ちをひとつにする家族だってあるわけで、それはきっかけに過ぎなかったのだろうけど。

夫婦仲が悪い家庭は荒廃しているというが、ピンポンそのとおりで、聞くに堪えないケンカ、グチ、時々修羅場の中で、最初は自分の両親が憎しみあうことを受入れられなくて、重く憂鬱な日々を過ごす小学生だった。

だけど、人間というのは強くできているもので、次第に環境ごときに自分の人生はゆずれないと考えられるようになり、反動でものすごくポジティブになることができた。

あと、恵まれていたのはマークがゆるかったから、「おやすみ」と言って、二階の窓から抜け出し、明け方の市場の時間に帰ってきてもセーフだった。

両親が夜の仕事をしている仲間の家に行って、そこはマジメに宿題を見てやったりして、夜食のUFO焼そばを食べたら、深夜の農道を原付バイクで二人乗りで駆け抜けた。突然、道が無くなってストンと田んぼに落ちたこともあった。

そんなことをやっていても正義感の強いところがあって、ヤンキーの集まりにロケット花火を打ち込んだり、チンピラの家に、爆竹の束で放り込んでは走って逃げた。

いつもうまくいくものではなく、単車の兄ちゃんに捕まった時には一転、神妙に謝って解放されることもあった。

また、昼間から酒を飲んで博打をする漁師には、窓からクズだアホだとケチョンケチョンに貶しては、自転車の立ち乗りでダッシュで逃げた。

ここでも弟がしくじって逃げそびれてしまい、いかつい顔をした若い衆にゲンコツで殴られた。遠くまで響く弟の泣き声を聞きながら下唇を噛んで復讐を誓った。

家庭環境が原因で非行に走ったという話を聞くけど、うちは母親が逆上すると何を仕出かすかわからないから、そっちが心配で、非行に走る余裕もなかった。そもそも「つるむ」のは格好悪いし。

結局、ボクら兄弟は中学を卒業すると家を出た。

家庭環境というより、独立心が旺盛でいつも遠くへ遠くへ行きたい気持ちが強かった。

学校を卒業したら、迷わずアメリカに飛び出し、4年後に弟も追いかけてきた。

それから数年後、弟の結婚式が終わって両親は離婚した。

いちおうはものわかりよく励ましたが、もし活字にしたなら六法全書8冊分くらいになったであろう母親のグチを聞かなくてすむことを小躍りして喜んだ。「第二章 再婚相手編」が待っているとも知らず。

それから時を経て母親は再婚した。長く技術者をしていたマジメな感じのヒトでひとまずは安心した。

送られてきた母親のウエディングドレスのアルバムはシアワセに満ちていて、ただ、なんというか親のコスプレを見てしまったようで、最後のページまで見ることができなくて、ただ「おめでとう」とパチッとページを閉じた。

その人に初めて会ったのはアメリカに招待した一昨年。
空港で初めて会った時、勇気を出して「お父さん!」

と、呼ぶはずもなく、やあやあやあと近所のおっちゃんが遊びにきてくれたように歓待した。

そして今回。

チケットの予約も済ませた段階で母親が行くのを取りやめると言う。

事情を聞いたら、もう別れるから、ひとりになってからいくと言う。それから長々とその人をグチってから「やっぱりお父さんの方がマシ」と・・・・・。

久しぶりにキレそうになったけど、翌日気を取り直して国際電話をかけたら、今度はひとりで来ると言う。孫の顔が見たいと言う。

これを言われたら息子は何も言えず、旅行会社にいろいろ言ってすみませんと再度予約を入れてもらった。

そう、この自分中心で振り回された子どもの頃が思い出された。

翌日、あれだけグチり倒した母親からデレデレの明るい声で電話が掛かってきた。

「今回も二人で行くから」

受話器の向こうで固まっていたら、「ちょっとあいさつさせるわ」と言うのを聞き終わらぬうちに「かしこまりました」と受話器を置いた。