また親父に一本とられた

NO IMAGE

 1月28日、日本最後の日は、新大阪から山口県の萩に暮らす父親を訪ねた。

新大阪駅から新山口駅へは新幹線で2時間弱。ここから路線バスに乗り換える。

瀬戸内側の新山口からバスで北上して、中国山地を抜けたところに萩がある。

松下村塾の吉田松陰をはじめ、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文など、明治維新の主役を数多く輩出したこの街も、今では日本海側の静かな一地方都市としてその面影を残すばかりだ。

ボクは四国で生まれて育ったけど、半分長州萩の熱い血が流れていることをすごく誇りに思っている。

父親は幼い頃からここでヤギの乳を絞り、畑を手伝い、魚や野鳥を捕って育った。

社会に出てからは、よく転職や失業もしたけど40年船乗りであり続けた。

50代後半くらいか、弟が結婚した頃に母親とは離婚して、ボクら兄弟がいるアメリカに生活の重心を移していった。

「移していった」というのは、ある時を境にということではなく、時々ピンチヒッターのような感じで、縁のある船会社が船長を休ませる時の代打船長として年に数ヶ月だけ現場に入っていた。

永住権を取得してアメリカに完全に移ってからの10年近くは、ボクら家族といっしょに暮らした時期もあったけど、リズムや習慣や価値観をうまく重ねられず、近所にアパートを借りて独り暮しをするようになった。

親に懐かず相談せず、中学からはまったく家に居着かなかったボクは、家庭を持って初めて父親とコミュニケーションを取るようになった。

そんなだから、何でも上げ膳据え膳で、やってもらって当たり前の父親に、家族全員サプライズの連続だった。

それでも何とか、身勝手とも思えた生き様の「言い分」は会話を重ねる中で理解できたし、一方で、気性の激しさばかりがクローズアップされた母親の「理由」も痛いほどわかった。どっちも無軌道に見えて、責任を果たし、辛い時間を耐えてくれていたのだろう。

父親が家を出た後も、週日は毎日午後までボクの会社を手伝い、週末はいっしょに過ごす、そんな距離感でつかず離れず数年が流れた。

在職中は、父親の部屋でライターを点けると爆発する(そのくらい酒臭い)というウワサに胸を痛めたり、毎朝あたりかまわず「くわっ!」っと大声で痰を切る音に、涙がちぎれそうになることもあったけど、スタッフはみな笑顔で「おとうさん」と声をかけ、話し相手になり、ずいぶんと大事にしてくれた。

去年の今頃の送別会では、みんなから父親の名前「hiroshi」をデザインして刺繍した特製のシャツが贈られて、目のまわりを真っ赤にしていた。

 

「そのまま」もあったけど、70歳になって2回目の小さな自動車事故をした時、

これ以上運転を続けて第3者を傷つけるリスク、日本語での医療、福祉の充実度、仲間の存在(有無)、それらを考えて半ば強引に日本帰国を決めた。

日本帰国直後もすったもんだあったけど、今は萩近郊にあるシニアの施設に入ってようやく新しい生活が落ち着き始めた。

温泉付きのこの施設は、バスとトイレのついた個室に、24時間セキュリティ(鍵などいらないような田舎だけど)と医療の対応、栄養士による3度の食事、週に1回のカンタンな検診がサービスに含まれている。

町に出るバスは1時間に1本、コンビニまで歩いて10分もかかる不便な立地ではあるけど、施設の人はみな親切で、まわりも同世代ばかりなので、親を日本に置いて、海外に暮らす身としては申し分ないし心から感謝している。

 

東萩駅に着くと、従兄弟のアキラさんが迎えにきてくれていた。

アキラさんは従兄弟といっても還暦を過ぎていて、幼少時は父親の弟のように育った。昔、親父が外国航路に乗っていた頃、帰国の度にオールドパーを土産に買って帰ったことを今でも口にするくらい律儀に慕ってくれていて、親父が日本に帰ってからも親身に面倒を見てくれている。

アキラさんの運転で伯母の家に着くと、先にピックアップしてもらった親父がコタツに入って新聞を読んでいた。

「おう」(そっけなく)

「どんなんな」

「うん、ええで」(何が?)

「メシはしっかり食うとんな」

「おう、でもワシにはちょっと多いわい」

2ヶ月ぶりの父親は以前にも増して顔色が良くなり、一時は食べずに飲みっ放しの生活で体重を10キロ近く落としたけど、すっかり元に戻っていた。いや、近年では一番健康そうだ。まずはひと安心。

かつては、

[だらだら晩酌を飲んで食べない>内蔵が休まらない、眠りが浅い>食欲がない、不健康な心身で酒に逃げる>(始めにもどる)]

というネガティブスパイラルの典型だった。

それが施設に入ってうれしい誤算だったのが、

[施設の食事の時には誰も酒を口にしない>自分だけ飲むのは「カッコ悪い」(本人談)>ガマンして食堂では飲まない(お腹がふくれる)>酒が入る余地が少ない>あきらめて寝る>眠りも深くなって目覚めもいい>健康な心身>少しは世の中の役に立ちたい(ウソ)]

というポジティブスパイラルに見事に転じた。

それと、毎日7、8キロアップダウンのある山道を、時間にして2時間くらい散歩するので足腰まで強くなってきた。

けっこうタヌキで、その場しのぎのウソをペロッと言う親父だけど、顔色や姿勢、体格を見る限り健康に向かっているのは間違いなさそうだ。

「よし、イッパイやろうや」

待ちかねたように父親は焼酎の湯割りを飲み始めた。

テーブルいっぱいに伯母が用意してくれたごちそう。すべて地の魚や庭で取れた野菜でこしらえている。

ボクも飲みたいけど、昼から親戚の市会議員さんが萩の活性化のことで相談に来るそうだからビールを一本だけ。

親父は散歩のコースで、カワセミや鴨の巣を発見したこと、それは自分以外にどうやら誰も知らないこと、取って喰ったらさぞ美味いだろうがそっとしている(善人ぶり?)というような近況を力強く語った。それから、アキラさんと子どもの頃、野鳥や魚をどうやって獲ったか、思い出話に突入していった。

また、施設の温泉には年長者で威張ったジイさんがいて、腹が立つから近所の源泉掛け流しの温泉に行っているという相変わらず大人げない話をした。

ボクは家族やメンバーの様子を話そうと思っていたけど、父親のまぶたがとろんとしたが早いかコタツでそのまま寝入ってしまった。あらあら。

そのうちに議員さんが来てくれて、萩の現状や観光客の誘致、PRの仕方を話している間もとなりでずっとイビキをかいていた。

議員さんが帰って、親父が起きるのを待って温泉に出掛けた。

山の方に20分も走ったら親父の好きな温泉がある。久しぶりに背中を流したらご機嫌そうな顔で目を閉じた。

帰り道、連日の散歩ですっかり磨り減ってしまった親父の靴を買い替えにスポーツ用品店に寄った。

ウォーキングのセクションで、一番機能性の高そうな靴を店員さんに選んでもらった。

履いてみると、親父の足は異常に幅が広く、エベレストのように甲が高いことを発見。

ボクが小さい頃から先生や仲間にからかわれたこの足は、母親だけでなく父親からも譲り受けていたのだ。

幅広甲高足のサラブレッド。ザ・ニッポンの足、だ。とほほ。

ようやくフィットする靴を見つけて、店内を歩いてみると「うん、ええの」と親父。

「足、引き摺らんと、膝をあげて、姿勢よく歩くんで!」

こくりと頷く親父。古い靴は捨ててもらって、そのまま履いて帰った。

 

夕食は5人しかいないのに、20人前くらい板前のアキラさんが捌いたフグの刺身に鍋。ポン酢は庭の柑橘類からの自家製のもの。さらにバージョンアップしたごちそうに舌鼓を打った。

 

萩は白壁の美しい城下町で、恵まれ過ぎなくらい海の幸山の幸に恵まれている。地の魚、イノシシの肉、季節の山菜、名物の蒲鉾や若布。温泉が豊富で、海がキレイで、人が素朴で親切な街だ。それなのに一戸建ての家が中古なら500万円くらいから手に入る。

日本国内で沖縄や離島に移住する人が多いと聞くけど、日本国内でそういう暮らしを望むなら萩は絶対のおススメだ。とくにリタイヤして静かに豊かに暮らすにはもってこいだろう。

 

宴が始まって1時間あまりで親父の目がとろんとなってきた。まだ午後7時だ。

「すまんが、送ってもろうてええかの。わしゃ帰って寝るわい」(親父)

「(一同)え〜っ!!

「ヨウイチさんがせっかく来てくれたのに!」(アキラさんの嫁)

「ヒロちゃん、あんた何考えとるの!?」(伯母)

「叔父さん、布団も用意しとるし、洋ちゃんが来てくれとるんやから」(アキラさん)

「父ちゃん、みんなも楽しく食べとる最中やし、勝手言わんの。明日の朝帰るから見送ってよ」(ボク)

「ええわい。また今度ゆっくり来い。なあ、アキラ、奥さんに運転頼んでくれんか」(親父)

この社会性、この人柄。親父はそこにいるアキラさんの嫁に直接頼まず、アキラさんを介して頼んだ。

 

その瞬間、親父がアメリカに暮らしていた頃、友人宅やボクの家でパーティをする時には必ずカミサンが親父をピックアップしていたのを思い出した。

そして、どんなに盛り上がっていても、どんなに早い時間でも、「おい、そろそろ帰らんか」「いつまでやっとる気じゃい」と怒気炸裂で無理矢理に帰った。

「もう、二度と親父は呼ばん!」「まぁまぁそう言わないの。お父さんもサミシイんだから」とカミサンと毎回話してたのを思い出した。そうだ。期待したオレがバカだったのだ。

「洋ちゃん、ごめんな。叔父さんは言い出したら聞かんけえ」アキラさんがすまなさそうに言った。

「じゃあの」と赤い顔で玄関に歩き出す親父。

「身体に気ぃつけまいの」

ボクの声に返事もせずに親父はすたすたと行ってしまった。