車窓を眺めながら

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バスはフリーウェイ5番を南に真っすぐ走る。

日が落ちた頃、バスの真横、目線より少し上に浮かんでいた満月はいつの間にかバスの進行方向に緩やかに昇り、ふと気がついたら車窓からは見えない。

いっしょに走っているようでも、気がついたら先に行って見えなくなってしまった。

何だか親子の関係のようだ。

娘や息子は親以外の自分たちの世界を毎日広げていく。

例えば友だちであったり、学校であったり、遊びやスポーツや将来のことや好きな人のことに。

親は、彼らの忙しく刺激的な毎日のなかで一日一日存在を小さくしていく。

それは極めて健全なことだし、ボクは親として潔く彼らの離陸を見守ってやらねばならないと覚悟している。彼らが振り返ったらそこにいる。だけど気配は感じさせない。

さっき剣道をいっしょにする話を書いたけど、幸せってそんなちっちゃな日常の中にあるものだと思う。

朝起きて家族が元気なこととか、会社に行くとみんながそこにいることとか、部下の尻拭いで背中に汗をかくこととか、仲間から暇つぶしのメールが届くこととか、「ふつう」の集積にこそ幸福は詰まっていると思う。

「ふつう」なんだけど、そこに共通する存在は「人とのつながり」だ。背骨はモノでもカネでもない。他人と自分とのつながりだ。

社員旅行でラスベガスの友人から聞いた、「ロブション」という最高級レストランに行った話を思い出した。

「話のタネに二人で1500ドルのディナーを食べたけど、4時間もかけて料理がだらだら出てきてくたびれた。味は確かに悪くない。だけどこうやって久しぶりの仲間同士で、居酒屋で揚げだし豆腐をまわして食ってる方がずっと美味いよ」

ホントそうだと思う。

きっとその料理も、相手への感謝のテーブルだったり、大切なことを伝える場面なら、史上最強の助っ人として花を添えるにちがいないけど、冷やかし半分で行っても心までは満たしてくれない。やっぱり仲間や家族、大切な人と、バカ話や夢を肴に飲む酒が一番うまい。

相手とケンカしてたり、身内に病人がいたり、虫歯があったらメシなんてうまくない。

大切な人たち、そして自分自身が心身共に健康でこその幸せだ。

話は飛躍するけど、今、自分が無力でも、ポケットが空っぽでも、あるいは借金で首が回らなくても、決して悲観する必要はないと思う。いや、してはならないと思う。

短い人生、有限の人生で悲観する時間はもったいない。まして、もし誰かを妬んだり、恨んだりすることに時間を費やしているとしたらもっと人生の浪費だと思う。ネガティブな心からポジティブな人生は切り開けない。

帳面を開いて、感謝できることを書き出していったら驚くほどたくさんあるはずだ。足りないことを数えるより、身の回りの感謝を見つめたい。謙虚でありたい。