夏の雲を眺めながら

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日曜日の朝、新幹線の車窓を滑るように静岡の風景が流れる。

あのスタッフはこの風景を見て育ち、ご家族はこの風景のなかで我が子を想い生きておられるのだなあと淡い水色の空を見上げる。

すべてのスタッフの親御さんが同じ星、同じ太陽を見上げては娘や息子の身を案じているだろう。ボクは決して舵取りを誤ってはならない。船の世界には進まなかったけど、ビジネスの世界で船長としてみんなを安全な航海に導かねばならない。

旅の空にさまざまなことを思う。

さっき新幹線の乗り継ぎの合間、家内のケイタイに電話をしたら、娘と近所の展望台に散歩中で元気な声。

子どもたちの様子を訊ねると、初めて2週間の泊りのサマーキャンプに参加している息子からサミシイと心細い手紙が来たらしい。まだ3日目だぜ。
早く親離れできないとダメだけど、こっちも子離れしなくちゃねと家内。

9月から高校2年生になる娘は、分厚い本と格闘中で、歴史上の国の指導者や思想家、独裁者がそこに至った背景や考え方を学んでいるようだ。努力家の彼女は小学校3年生の夏くらいに、ボクの40数年分の勉強時間の総量を上回っているだろう。

彼らには今瑞々しい感性を持つ人生のこの季節にたくさんのことを学び吸収してほしい。

人に善人と悪人がいて、世の中の事象が白黒だけで切り分けられるものではない。
すべての人の中に、美しい心と醜い心の両方がある。長所は短所の裏返しだし、短所が長所や強みに成り得ることもある。

ガラス細工のような脆さと、鋼の強靭さの両方を併せ持つのが人の心で、人は弱くて強い。

また、モノごとは見る角度でカタチを変える。
大きな声に引っ張られたり、世間の常識にとらわれてはならない。

例え世界中の人がイエスと言ってもおかしいものはおかしい。まわりを敵に回しても、自分の判断基準、哲学思想に沿って生きていってほしい。

彼らに伝えたいことは山のようにある。

目を瞑ってまぶたに浮かぶ子どもたちは、幼稚園の運動会のスプーン運びだったり、ソファーを伝え歩きするずいぶんと昔のシーンばかり。だけど現実にはあと6年もすれば二人とも大学生で家内とふたりの生活に戻ってしまう。

子どもたちと送り迎えの車でケンカするのも今しかできない。本を読むボクの膝に座ったり、勝手に書斎の引き出しを開けられたり、ボクが肘をついて食事するのを咎められるのも「今」のシアワセだ。

ボクがそうであったように、外の世界ばかりに目を向けて、はたと振り返って親を想うのはずいぶんと先だろう。それで良いし、そうでなくてはならない。

社員や仕事仲間、お客さん、友人、家族。

未来ばっかり、先のことばかり考えて生きるボクだけど、自分のまわりのかけがえのない人たちとの時間、今日大切な人たちが生きて目覚められたことをキチンと感じて感謝せねばならない。

ボクの人生は、家族が健康でいてくれて、親より長生きして、カミサンや子どもより笑って先に逝くことができたら100点満点だと思っている。

今こうして大好きな仲間と大好きな仕事に取り組み、温かい仲間に囲まれる人生、同じ時代を生きられるシアワセは、プラスαのボーナスポイントで、ボクは1000兆点の人生を過ごさせてもらっている。「おかげ」と「感謝」の高速回転寿しだ。

己の能力の足りなさを恨んだり、失敗をいつまでも悔やんだり、日常のうまくいかないことで挫けている場合ではないのだ。

風景が熱暑の京都に変わった。