親父の人生第3コーナー(2)

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すぐに日本に飛びたかったけど、様子が明らかでないまま会社を空ける訳にはいかない。もどかしいもどかしいもどかしい。

すべて伯母と従兄弟夫婦、日本に帰国している弟に託すしかない。
海外で暮らしていてこんなに日本を遠く感じたことはなかった。

数日後、検査の結果が出る。
幸い脳には異常ナシ。

まずは胸を撫で下ろすも、大問題の「大」が取れたくらいで、問題はこれからだ。

親父の入院生活と肘の手術、そしてリハビリが始まった。それが一ヶ月前。
カレンダーを睨み、退院後最速で日本に飛べる日をチェックする。
同時に日本滞在中、来年に向けての大学や専門学校への挨拶回りも組み込む。

ゴールは親父の退院ではない。
親父の70代を過ごすに相応しい生活環境を再構築することだ。

車の運転が欠かせないロサンゼルスでは、親父が自立した生活をするのは困難と判断して、10年近く過ごしたアメリカを後にしたのが今年の1月。そこに至るまで同居と別居、失望と反省、葛藤をぐるぐると繰り返した。

帰国後は、姉が暮らす本家でいったん生活を始めたものの、比較的不健全でマイペースな生活態度を日々咎められ、ある日突然不動産業者に駆け込み、何の相談もなくアパートに引越したのが3ヶ月前のこと。誰に相談しても反対されるとわかって強攻策に出たのだった。

自分に非がある時、潔くまわりを無視して突っ走るのは今に始まったことではない。半世紀以上の反目の歴史がそれを物語っている。

思えば親父は常に「話し合い」「調整」「譲歩」といったコミュニケーションはゼロ。不言実行、事後報告の人なのだ。

話を親父が脳の精密検査をして異常ナシだった時点に戻そう。

もうひとりでアパートに生活をさせる訳にはいかない。

親父が望むプライバシー、相反するようだけど同世代との交流機会、3食規則正しいバランスのとれた食事、人生第3コーナーに相応しい豊かで安全で文化的な環境、病気やケガをしてもすぐにケアを受けられる設備、加えて兄弟のように育った従兄弟がすぐに訪ねられる距離感、できれば酒屋が遠いこと、さらに贅沢を言えば風呂好きだから温泉のそば。

難易度は高いけど、やっぱり親父のことだからできるだけそれらの要素を兼ね備えた環境で残りの時間をいつまでもシアワセに長生きしてほしい。もう10年も20年も生きてほしい。

そんな状況で本当に役立ったのがインターネット。
条件で検索するのにこんなに早く便利なものはない。
おかげで、日本には多種多様な施設があることも学べた。また、まだうっすらだけど、その段階によって入れる施設、受けられる福祉があることも知った。正直、アメリカに比べて日本がこんなに福祉の手厚い国だとは知らなかった。
少子高齢化の最中、非労働人口が40%を超え、非正規雇用の割合も高まっている。ありがたいけど複雑な気持ち。

弟がリストアップした施設の一件一件に電話をしてしぼりこんでいく。

条件は備えていても、萩市内だと100人、200人のウェイティングはざら。
それでも弟の根気が実り、となり町で「温泉付」の高齢者向けの施設が見つかった。
広めの個室、65歳以上(平均年齢74歳)、24時間緊急対応、1週間に1回の健康相談、栄養士による3食の食事、何より電話での職員の対応が親身で感じが良い。

驚いたことに、偶然一部屋「空き」が出て、抽選受付中(締め切りまで5日!)とのこと。

翌日、従兄弟の運転で、外出許可をもらった親父が施設を訪ねた。
いくらボクらが良いと思っても、親父が気に入らなかったら話にならない。

幸い、施設を案内してもらった親父は、親切な職員の方と新しくて清潔な環境をすぐに気に入ってその場でエントリーした。

抽選にエントリーしているのは親父を含めて3名。

競争率3倍と聞いて「やったの!決まりやのう」とボク。

「何アホ言うとん。簡単ちゃあうで」と弟。

一方、親父と従兄弟もどっちがクジを引くか話したそうだ。
「アキラ、引いてくれんか」と親父。「外したら責任取れん」と従兄弟。

そんなボクらの思いをよそに、1人は直前で辞退、1人は抽選会場に訪れず、あっけなく親父の当選が決まった。

安心しちゃいけない。油断しちゃいけない。まだまだこれから。安心するのはまだ早い。

だけど。

両手を突上げてヨロコビを爆発させた。

(つづく)