SF−LA 500マイル・自転車旅行記(その9)

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 8月20日、薄曇りの朝。

娘が毎朝こしらえてくれるケールやほうれん草が山盛り入った野菜ジュースを飲んで出社。

旅から帰ってきて今日で早3日。すでに遠い昔みたいだ。

昨日の朝礼では、真っ黒けに日焼けした僕を見て、10日ぶりのメンバーたちが遠慮なく笑ってた。

確かに、写真を人と撮ると、僕だけ逆光みたいに黒い。

記憶が風化してしまう前に、書き残したままの旅の最後の二日間を綴ろうと思う。

その前に今回の旅日記、、、

一方では、いつか息子が社会に出た頃、

「親父はこんな思いで僕と旅してたんだ」って、

このブログを通して、伝えられたらうれしいと思っている。

旅の間やたらと説教が多かったけど、長期的戦略的教育的配慮満載であったのだと気づくであろう。

9日間という時間は、親元を離れていく息子に、様々なことを伝えるには、十分な時間だったかわからない。

彼が生まれた時にどんな想いを込めて名前をつけたのか、

僕がアメリカに渡った理由、

23歳の時にライトハウスを始めた時の想い、

考えてみたら初めて息子にそんな話をした。

そして、一人前の男になるために、絶対に肝にすえてほしい3つのことを、毎晩のように話した。時にはまた同じ話をしてるという顔をしてたけど、かまわず伝え続けた。

一つ目は、「継続することの強さと大切さ」

ペダルの一漕ぎで進む距離は小さいけど、その積み重ねがサンフランシスコからロサンゼルスまでの500マイル(キロ)の距離に繋がってる。

とんでもないと思えるような夢や目標も、実はまったく同じで、今日、今、この瞬間の努力の積み重ねが、必ず自らをそこに導いてくれる。

愚直に努力を継続する力、自分と自分の未来を信じてやれる力は才能だし、天才にも勝る。

二つ目は、「常識や当たり前と言われること、大きい声を疑うこと、鵜呑みにしないこと」

今回僕らが翻弄されたGoogleマップの「推奨コース」然り、ガイドブック然り。

人からのアドバイス、テレビや新聞、活字、国、政府、先生の言葉、教室の中で語られる当たり前、常識、すべてにおいて絶対も完璧もない。

何が正しいか、何を選択するか、それは自分の頭で考えるということだ。

僕が社会に出て、自らの経験や先輩たちから学んだことだ。

三つ目は、「在り方(姿勢)」

不機嫌そうな顔をしていたら、僕はいつも叱りつける。

人間は一人で生きてるもんじゃない。不機嫌、あるいは不足が顔や態度や言葉に表れると、まわりにも不快感が伝染するし、自らの心も汚してしまう。

心が乱れていたり弱っているならことさら、表情から、発する言葉から、態度から、明るく前向きに変えることだ。

環境はすべて自分の鏡。

「常に明るく前向きに、夢と希望を抱いて、素直な心で」だ。

これは僕の大好きな稲盛和夫さんの言葉だ。

どのくらい頭に入ったかわからない。でも耳にできたタコがいつか生きる日が来る。

先週の金曜日まで時間を遡ろう。

旅の8日目(自転車7日目)の朝は、サンタバーバラのB&Bで迎えた。

この日は、久しぶりに温かいフランスパンとコーヒーの朝食を食べて9時半に出発。

連日のハードな坂に、玄の膝の痛みが増していた。言葉で弱音は吐かなくても、顔や様子を見たらわかる。これ以上、激しい坂は上らせたくない。

山の中に何度も切れ込む、この日のGoogle推奨コースは無視して、反対方向の海岸線にハンドルを向けた。道が繋がっている確証はないけど、そこは出たとこ勝負。

サンタバーバラのビーチは、沖にヨットが帆を浮かべ、ジョギングをする人、犬の散歩をする人、芝生に寝転がる人、カップルの老夫妻、それぞれの朝を楽しんでいるようだった。やはり美しい街だ。

終日刺すような猛暑の前日とは一転して、マリブへの道のりは、ほぼ一日冷んやり爽やかなシーブリーズに吹かれながら走れることができた。

アメリカはその町の税収や行政の考え方によって、ローカルの道の様子がまったく異なり、それは自転車専用道や標識の充実度にも反映される。

道そのものも、デコボコのヒビだらけの道もあれば、滑らかなアイスリンクのような道もあり、それが市の境界線で変化したりする。

傾向として農業の町は、自転車道など二の次三の次という感じで、道そのものが荒れていて走りにくかった。

逆にサンタバーバラやマリブなど、固定資産税がザクザク入ってきそうな町は、美観や機能性に手間とお金が掛かっている印象だ。

結局この日も、袋小路にはまったり、右往左往しながらも、サンタバーバラ、サンバラディノ、オックスナードを経て、なんとか海沿いのルートだけでマリブに抜けることができた。

無事一日を終えたものの、顔を歪めて膝のマッサージをする玄が痛々しい。

そして最終日の8月17日。

サンタモニカからレドンドビーチの南端まで、お見事に自転車専用道が一気通貫していた。

ベニスビーチ、エルセゴンド、マリナデルレイ、マンハッタンビーチ、ハモサビーチ、レドンドビーチ、、、旅の最後のご褒美のように、美しいコーストラインの中を、自動車に脅かされることなく、ゆったり走ることができた。

ところで1号線。

当初の「1号線を南下すれば帰って来れる」というのは思い切り思い込みの妄想で、突然フリーウェイになって侵入禁止になったかと思えば、唐突に自転車を受け入れたりする。

また突然消えてなくなったかと思えば、どこからともなく生えてくる。1号線の「1」は、1番信用できないの「1」で、1番怪しいの「1」だとよくわかった。

フリーウェイ全般についても、原則自転車の侵入を禁止しているようなのだけど、例外も散見された。

また、稀にハイウェイでは、自転車専用車線が突然消えて無くなり、真横から新しい自転車専用道が生えて来たりする。

当然今走っていた道は自動車道に変わり、ぼうっと走っていたらトレーラーにぺちゃんこにされる運命が待ってたりしてまったく油断ならない。

話をレドンドビーチの自転車専用道に戻そう。

ここを走り終えてから、最後の難関が待っていた。

パロスバーデスの坂道を、麓から頂上まで上り切らなくてはゴールの自宅に帰り着けない。

麓で膝を確認するようにさする玄。そして大きく深呼吸をして上り始めた。

歩くより遅いくらいのスピードしか出せない。顔が赤く歪んでいく。

代わってやりたいけど、代わってやることはできない。

僕が先を走り、しばらくして振り返るといつの間にか姿が見えない。

慌てて坂を戻ると、玄は膝に手を当て、半分うずくまるように立っていた。

「大丈夫か、転んだのか」

「いや、膝がプチンって音がした」

「もういい、迎えに来てもらおう」

「絶対にイヤだ。最後まで走る。ここまで来て諦めるのは絶対にイヤだ」

「・・・・・」

それから30分あまり。

自転車を押して歩いては乗って、また降りて少し押しては乗った。

そして、、、ついに住み慣れた我が家に到着することができた。

息子の表情からかすかに笑顔が浮かんだ。そして、真っ黒けの顔同士強く抱き合った。

西海岸500マイル。自転車を漕いでた時間は約70時間。

今回の旅から、僕自身も大切なことを学んだ。

旅も人生といっしょで「どうしてくれるの?(何が与えられるか)」ではなく、自らがハンドルを握り「どうするか(いかに生きるか)」だった。

道が悪い(ない?)、車が危ない、宿が見つからない、水が切れそう、食糧が尽きる、陽が暮れた、足腰が痛い、病気になった、財布を無くした、、、それらは全部自分のリスクで、自分自身の責任なんだ。

会社で、仕事が面白くない、景気が悪い、上司がアホだ、同僚が意地悪だ、部下が気が利かない、給料が安い、、、そんなことをボヤいても何も変わらないし生み出さないのといっしょだ。

旅も仕事も人生も、自らが切り拓き、創造しなくちゃ面白くない。。